2008.03.22

 地獄へまっしぐら

DboyDanny Boy - Cait O'Riordan
http://www.youtube.com/watch?v=e96nVYdYQPA

先日のエントリ(タイトル、ほんのちょっとクラッシュのアルバムにひっかけてみたんですが)の中で書ききれなかったことを少し。上の動画はそのアレックス・コックスの大娯楽カルトムービー『ストレート・トゥ・ヘル(Straight To Hell)』(87年)の中で、ケイト・オリオーダンがアイルランドのトラディショナル・フォーク『ダニー・ボーイ』 を歌う場面です。
今は亡きジョー・ストラマーですよ…。カメラがずーっと引くと、『最後の晩餐』の典型的構図になっていますね。テーブルについているのも13人…かな?(レオナルド・ダ・ヴィンチの名画にも背景に3つの窓が描かれているけど、あれは聖三位一体の象徴という意味合いがある)そしてこの「晩餐」のシーンはまさにラストの「地獄へまっしぐら」な大銃撃戦を暗示しているのよね。

銀行で大金を強奪して逃走中の殺し屋3人組にサイ・リチャードソン、ジョー・ストラマー、ディック・ルード。サイの女房にコートニー・ラブ、町を牛耳るマクマホン一家のチンピラにザ・ポーグス、一家の執事にエルヴィス・コステロ。さらにデニス・ホッパー、ジム・ジャームッシュ等々キャストは豪華といっていいのか異色といっていいのか言葉に迷う。コックスはポーグスやストラマーといった非俳優の演技に懸念を抱いていたそうだけど、ほぼ地で行く配役なので特別問題ないです。(むしろポーグスのシケたチンピラぶりなどは圧倒的ホンモノ)
マカロニ・ウェスタンとフィルム・ノワールへのパンキッシュなオマージュともいうべき本作は、内輪の悪ノリと取られても仕方ない面もありますが、コックス自身は「人生で最も楽しんで最も純粋に作った作品であり一番愛しい映画だ」と語っていて、それはそのとおりだと思う。

『ストレート・トゥ・ヘル』のストーリーは、結局すべてはいきなり躁状態で現れ風のように去ったアメリカの石油王(デニス・ホッパー)の手のひらの上、という皮肉な結末なのですが、パンク・スピリットを貫くイギリス人であるコックスはその次作として、1850年代にニカラグアに遠征して自ら大統領に就任し独裁者となったアメリカの黒歴史、ウィリアム・ウォーカーの半生を描いた『ウォーカー』(87年)を撮ります。この映画の中に時代考証を無視して現れる現代アメリカの風俗やラストで飛来するヘリコプター部隊は、アメリカの軍事干渉が決して過去の出来事ではないことを暗示しています。
つまりコックスは『ウォーカー』でレーガン政権のニカラグアへの干渉を痛烈に批判してハリウッドに喧嘩を売り見事に玉砕するわけなんだけど、彼の映画は私にとってはタランティーノのそれよりも「愛おしい」。

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2008.03.19

 La vie parisienne

Final Scene - French Cancan (1954)
http://jp.youtube.com/watch?v=rXtxyQFXZ3w

スザルゼウスキの左肩ですが、検査の結果脱臼はしてなかったそうです。ヨカッタ…。
さてスタッド・フランセのお祭りといえばフレンチ・カンカン。ムーラン・ルージュのカンカンガールが、町で一番の男達のためにはりきっちゃう日です。私おりしも先日ジャン・ルノワールの映画『フレンチ・カンカン』を見直したばかりなんですけど、ラストのほとばしるシャンパンの泡みたいな群舞はまさに映画の至福です。
モンマルトル出身のルノワールがフランスに帰って撮影した1954年の映画。主演のフランソワーズ・アルヌールは若き日の石ノ森章太郎をメロメロにした女優さんだよ。

こちらパリセの彼女、アレクサンドラ・ローゼンフェルド嬢によるカンカンでございます。この人はほんとに女神だと思う。
http://cache1.asset-cache.net/xc/74673802.jpg?v=1&c=NewsMaker&k=2&d=17A4AD9FDB9CF193B232F6F017054383DE3769FBDFC0B04E591E7EC1A351FC8B

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2007.06.28

 早撮りの軽妙

Raizo私のような遅筆には即時性の求められるブログは向いてない、というのは前からわかってることなんですが、記事をアップした後までも未練がましくダラダラ推敲を続けている自分にしてみれば、システィーナ礼拝堂の『最後の審判』製作に取りかかる時、「油絵なんぞという女々しい技法で描けるかッ」と言い放ってフレスコを強行したというミケランジェロはカッコイイ。
フレスコ画は下地の漆喰が乾かないうちに(約1日で固まってしまうため、1回の作業分の面積を“ジョルナータ”といいます)一気呵成に描き上げねばならず、もちろん描き直しもきかないので相当の実力、体力、気力を要する技法なんですね。

さて先週はNHK-BSの市川雷蔵主演映画特集を観ていたのです(三隅研次の『新撰組始末記』をうっかり見逃したのは鬱だ)。そのうちの一作、『若き日の信長』を撮ったのは『薄桜記』の森一生。巨匠というよりは一プロフェッショナルとして坦々と数多くの娯楽映画を撮った。早撮りの監督だったそうですが、そこがいい。こね回していたらあの感じは出ないんじゃないかな。
森一生の映画のどこがいいのか好きなのかを説明するのはなかなか難しいんだけれど、強いて言うならとっても純粋に「映画だ」ってところでしょうか。余計な意味も感傷もなく、潔い。小沢栄太郎演じる「じい」こと平手政秀の切腹の場面はゼヒ観ていただきたい。ある意味、ハワード・ホークスの映画が好きなように森一生の映画が好きだと、そういうことです。─と、今日は早書きに挑んでみた…けどやっぱり駄目だー。

来週はお昼にBSで雷蔵映画を続けてやります!特にオススメは『眠狂四郎 勝負』。加藤嘉がいいのヨ。ホークス映画のウォルター・ブレナンしかり、やっぱ映画は老け役じゃないか?

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2007.05.17

 眠れない映画

ふとNHK-BSをつけたらタルコフスキーの“ノスタルジア”をやっていて、ついつい見てしまったら眠れません。タルコフスキーの映画はいつでも、圧倒的な映像の洪水を半ば唖然としながら見守るというような体験なのね。そして今日(17日)の深夜には、ブレッソンの“ラルジャン”キタ。トルストイ原作の、1枚の偽札によって運命を狂わされる青年の話。
この映画はかなり前に初めて見た時、何だか「見てはいけないものを見た」という気がしました。「映画とは何か」という危うい問いを口にしてしまいそうになるけれど、あるいはその問いから一番遠いところにある映画なのかもしれません。映像(写ったもの)だけがすべて、という…。繰り返しあらわれる印象的な青い色をもう一度確認しようかとも思うけど、怖いね。ブレッソン82歳、恐るべき老人による何かの奇跡のような最後の作品。

ところでこれ↓は、タルコフスキーの“鏡”の1シーンで、8分近い長い映像なんですが、3分30秒付近からの髪を洗う母親の映像、どうも日本の某ホラー映画の元ネタになってるような気がするのよね。
http://www.youtube.com/watch?v=-pu49SYGRnk

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2007.05.08

 今月は映画

最近シネフィル・イマジカを契約してみたら、今月はイタリア映画の特集なんですね。もう一度見たい映画がいろいろあります。タヴィアーニ兄弟の映画は好きなものもそうでもないものもあるけど、今夜と明日の「父 パードレ・パドローネ」、「サン☆ロレンツォの夜」はわりと好きですね。
「サン☆ロレンツォの夜」は、第二次世界大戦の末期に連合軍の保護を求めて村を逃れた人々の話なんだけれど(たしか)、小さな女の子の視点(回想)で見た戦争なので、ちょっと不思議な感じで。当然のことながら、やはりドイツ軍占領時代を描いたロッセリーニの「無防備都市」とはずいぶん趣が違います。あのお天気雨のシーンがまた見たいな。

今夜は「パードレ・パドローネ」を見て寝るか、続けてサム・ライミの「XYZマーダーズ」でスッカリ台無しにするか。悩みどころだ。

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2006.02.02

ビザール・ラブ・トライアングル(映画“バッド・エデュケーション”)

DVDを買ったまま、なかなか見る時間がなかったペドロ・アルモドバルの“バッド・エデュケーション”を見た。過剰な色。でも映画が半ばまで進んだところで、ああこの鮮烈さはデイヴィッド・ホックニー的なあれじゃないかな、とふと思ったのだった(そういや今はどうなってるか知らないけど、ホックニーのカリフォルニアの自宅は原色の青と赤に塗られてました)

この映画の中でとりわけ印象的なスイミングプールのシーンを見ていて、まず思い出したのはホックニーの絵“ある画家の肖像(二人の人物のいるプール)”だった。背後に山並みを見晴らすプールで、水中を泳ぐ男と、覗き込むようにプールサイドに立つ赤いジャケットの男(モデルはホックニーの恋人だったピーター・シュレジンジャー)。アクリルのクリアな、やや空々しい発色。

描かれた2人の人物の間にはただならぬ感情のやり取りがあるようにも見えるし、一方で両者はまったく何の関係もなく存在しているようでもある。それも道理で、この絵は時間も場所もモデルもばらばらに撮られた写真を組み合わせて描かれている。ホックニーのポートレイトには多かれ少なかれそういうところがあるのだけれど、描かれた人物達の奇妙な関係は、時々ピエロ・デラ・フランチェスカやフラ・アンジェリコの宗教画の雰囲気を思い出させる。

“バッド・エデュケーション”の主人公の2人の青年が、それぞれの真意は隠したまま、様々な思惑と感情が交錯するスイミングプールのシーンは、単純にガエル・ガルシア・ベルナルが泳ぐ姿がこの絵によく似ているからだけじゃなく、その不自然で不穏な関係性においても共通しているように思う。“ムーン・リバー”をバックに、神学校の少年達が川で遊ぶ場面の、エロティックで歓喜的な‘スプラッシュ’はこのシーンには見られない。それぞれの感情は水底に沈みこんでいくばかりだ。

物語は“訪れ”の劇中劇とその中で語られる少年時代の記憶という、フィクションと(劇中の)現実が幾重にも交錯し、登場人物達の関係もまた奇妙だ。彼らは相手を愛しているのかもしれないし、いないのかもしれない。
エンリケはどこまでアンヘルの「観察者」だったのか。イグナシオにバッド・エデュケーションを施したというよりはむしろ翻弄される者にも見える神父は、フアンを通じて既に実在しないイグナシオのイメージとも情交していたのではなかったか。兄の名を騙りサハラの役を演じたがったフアンは、兄のかつての恋愛の相手と関係を持つことで、エンリケを利用しようとしながら実は自らを罰していたのではなかったのだろうか。

そして、サハラの死を演じ終えたフアンは号泣し、イグナシオとエンリケの記憶は、エンリケが最後にイグナシオの希望(彼は生まれ変わった体で初恋の相手と再会し作家として人生をやり直したかった)と死の瞬間を記した手紙を手にした時に、ある意味での(逆説的な)「成就」をする。

ホックニーの絵の参考画像は掲載できないのだけど、David Hockneyと原題“Portrait of an Artist(Pool with Two Figures)”あたりで画像検索をかけると出てくるかと思います。ホックニーにはジャック・ハザンの撮った半ドキュメンタリー的な映画(邦題が嫌い)があって、ここでもスイミングプールと裸の男達のホモセクシュアルなコードは反復されています。ただ、随分前に見たので記憶が定かでない。
それより何より、この映画が子役のバッド・エデュケーションになってやしないかが心配だ。しっかり育てよ子役。フットボールのシーンで一瞬地の子供の顔になるのがかわいかった。それにしてもDVDのパッケージのデザインはこれでいいのか。

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2005.11.11

友よフットよ

で、今さらですがPSGのニュースをブログに移してみたんです。サイトの方だとある程度構築的にやることを意識しますが、読んだところからダラダラ上げていくにはブログの形式の方が向いている。正直、ブログはじっくり考える時間が取れない感じが苦手でもあるんですが、しばらくこれでやってみようかと。

ブログのタイトル“Vivement Samedi!”は、引き続きヌーベル・バーグの監督の映画にちなんでつけました。やっぱパリのクラブだからね。PSGは歴史の浅いクラブですが、それはこの街の一方にあるアバンギャルドの気風にもちょっとだけ似合っているような気がして、個人的には好ましいものです。タイトルバナーの画像は、キャップベルトンでのプレシーズン・キャンプの時のもの。後ろの壁面や光線がいかにもスペイン国境に近い町っぽい。
ついでに、いくらなんでもジミすぎたここのブログのタイトルバナーも差し替えました。パリの街角とかのいい写真があればいいんだけどなあ、なんて常々思う。まあ基本的には、デザインはテキストの邪魔にならなければいいんでないかと思います。こんなバナーも試してみたけど、置いてみるとちょっとうるさかった。

toutoyurikago22


サイトのトップページはもう1年以上あれでやってますが、開設当初は2ヶ月単位くらいで改装を繰り返していて、確かに今思い出すと冷や汗が流れるようなシロモノを公開していた頃もありました。じゃあ今はどうなんだという話になるとこれまた微妙です。当時のトップページに使っていた画像を1つ再現してみると、こんな感じでした。(ハズカシイので縮小)

toppic

実は一応、「女は女である」とか、「ピアニストを撃て」とか、あのへんのロシア・アバンギャルドっぽいコラージュの映画ポスターみたいな感じがいいなー、とアコガレたんですけど、いやとんでもない話でした。画像加工なんかできないので、人力で写真を切り張りしてスキャンしています。まあでも、ウドゥントップスだって人力でやってた頃が一番面白かったんだよ、とか、背景の黄色の発色がかえってレトロ?なんて無理矢理自分を納得させていたものです。まあ度胸だよね、サイト運営は。
サイズが大きくて重かったのですぐに取り払ってしまいましたが、なんとなく思い出深いモノではあります。


そんなわけで最近はずっとPSGオフィシャルサイトの画像倉庫をさまよっていまして、何となく、選手のトレーニングウェアや車の赤い色が印象に残っています。湿度や光線、町並みや植生などによって、その土地その土地できれいに見える色は違うものですが、パリはどうなんだろうな。誰かが、東京は黒がきれいに見える街だと言っていた。
ブレッソンの「ラルジャン」の舞台はパリだったか、あの映画に何かの「しるし」のように繰り返し映し出される印象的な青い色は何だったんだろう、と考えることがある。いや、ブレッソンに関してそんなことを考えるのもナンセンスなのかもしれないけれど。部屋の壁、扉、車、店のシェード、パトカーのランプ、封筒、睡眠薬の錠剤、洗濯籠、エプロン、警官たちの制服の色。

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2005.09.01

日本に惚れろ

パリ期待の若手(男前)、ライバルチームに移籍。情けなくて泣けてきますよ。そのうち陰惨にキレるかもしれませんが優しくスルーしてください。
こんな時にはアレだ、大映時代劇。
「眠狂四郎 勝負」

シリーズものは監督によりけりというところもありますが、三隅研次監督のこの「勝負」「無頼剣」といったところが中でも好きです。厳しく構築された構図と、しかしディテールから立ちのぼる情感が、市川雷蔵のストイックな色気とあいまって映像に香気を与えております。空を舞う凧など江戸の正月風俗が画面に情趣を添え、その風景の中にすらりと雷蔵が立つ幸せ。

「その豚姫が、雪よりきれいな俺の体に触れようなどとは無礼千万だぞ!」

もうある意味非常事態。
お話は、初詣に賑わう神社で出会った正義感の強い老人(実は勘定奉行)に興味をひかれた狂四郎が、老人を陰謀から救うという、大変大雑把に言えばそういう筋ですが、狂四郎と加藤嘉扮する老勘定奉行や、蕎麦屋の娘とのやり取りなどが細やかに描かれ、登場人物達との関係から狂四郎の複雑な人間性を多面的に浮かび上がらせる演出が見事。

時代劇というとまあアレかもしれませんが、同じく雷蔵主演の「新忍びの者」(森一生監督)の御用金強奪の場面なんか、ブレッソンの「抵抗」かと思いますよ(チト大げさ)。忍び同士が闇の静寂の中で斬り結ぶシーンが印象的です。

市川雷蔵という俳優は、殺陣は言うまでもなく、ただ酒を酌む蕎麦をたぐるというだけでこちらは一大事。最近は、まともに「立つ」ことさえできない俳優ばかりになってしまったな。

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2005.06.27

テイスト・オブ・チェリー

(今日は映画のお話。まだご覧になっていない方はご注意を)

フォコンの写真の中でも、2体の少年のマネキンがサクランボを摘み取っている、空の青と緑の枝と赤く熟した実のコントラストが鮮烈な作品はとりわけ印象的なひとつなのだけど、サクランボの季節というのは毎年たちまち過ぎてしまうので、春の狂乱の記憶でもある旬のサクランボを食べるのは、大げさに言えば、ああまた1年生き延びたのだという命の証明みたいなものだ。「俺のいのちのともしびの」(深沢七郎「いのちのともしび」)ってやつか。そういえば、毎年フットボールの新しいシーズンが始まる時にもそんなことを考える時があるから、これもまた、「あッ、そうだ忘れていたけどこれも俺のいのちの」なのかも。

随分前に見た映画なので記憶が正確ではないかもしれないけど、アッバス・キアロスタミ監督の映画に、「桜桃の味」という作品がある。主人公の男が、これから自分で掘った穴の中で自殺をするから、次の日の朝遺体に土をかけてくれる人を、車を走らせながら探していく、という話。
荒れた崖道を行く車、雷や風の自然の物音、突然差しはさまれる撮影スタッフの映像など、いかにもキアロスタミらしい。校庭を走る子供達のサークルなど、反復や循環のモチーフが繰り返し表れるのは、自殺を決意した男と対比する、日常という名の人生の比喩であろうと思われ、最後に車に乗せた初老の男が主人公に語る四季の話に連なっていく。

そういえばこの映画についてキアロスタミと対談した時に、淀川さんは、「僕、死のうと思ったとき、星と月を見たらね、死ぬことが嫌になったのね。こんなきれいなもの誰が作ったか、そう思うと死ぬ気がしなくなっちゃう。この映画の中で、サクランボだったか桑の実か、食べたら甘いから死ぬのをやめたというところが好きなの」、そんなことを語っていたのだっけ。

ラストシーン、主人公がどうなったのかは定かにしないままに、物語は「これはフィクションです」といった感じの撮影現場の映像(しかしこれもまたフィクション)で唐突に断ち切られるのだけど、物語は既に語られてしまったのであり、「次の日の朝」のエピソードは必ずしも重要なものではないのだ。

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