2007.09.26

 MURDERED BY THE CAMERA

Dds2008dimitri思えばスタッド・フランセのカレンダーのメイキング映像は、カメラを向けられノセられているうちに、屈強の男達が次第に「女」になっていく興味深いドキュメントであった。08年版のカレンダーは一部しか目にしてませんが、スティーヴン・クラインはキッチリ仕事をしているようだ。ラグビーの存在証明は申し訳程度の楕円のボールのみ。ラグビー選手はモデルさんや芸能人といった「プロデュースされた」被写体ではないので、見てて「スクレラ何やってんの?」みたいな気はやっぱりする。

クラインの写真というと、フェティッシュというか何というのか、プラスティネイトされた人体(まあ、つまり死体だ)がいささか非現実的に配置された一連のポストプロダクト写真を私はまず思い出すんだけれど※、カレンダーの中でそのテのシュミがわりあい出てるのがディミトリの写真じゃないかと思う。
まあクラインもファイン・アート志向の人なので、あの1列に特化しきった肉体を前に「体すげェー」という感奮のまま撮ってしまったんではアーティストとしてのプライドに抵触する(であろう)、が、なにぶんこれは健全なるラグビークラブのチャリティカレンダーだ。で、仕上がりが上の画像です。鏡を使った空間のトリックや人体の雰囲気はどこかベルギー・シュルレアリスムを思わせるかもしれないけれど、見ようによっては猟奇物件にも猥雑なシロモノにも見える。楕円のフォルムの連続、見る側の視点は武装された肉体の最も無防備な部分に誘導されるように作りこまれている。さりげに結構サディスティックな(被写体に対して)写真じゃないかと思った。果たしてクラインは彼のカラダに勝ったのかどうか。

クラインのテイストが地なのかある程度狙っているのかは分からないけれど、実際に死と性の暗喩は広告の二大常套手段なんであり、ファッション写真においてはヘルムート・ニュートン以来の伝統だということを考え合わせれば、彼はオーソドックスな写真家と言えるのかもしれない。MTV出身のビデオ・アーティストが撮った映画みたいな写真。

(※ 実際にダミアン・ハーストのホルマリン漬け動物シリーズを想起させる作品なんかがある…ということはあれはアレキサンダー・マックィーンとの仕事か)


【マックス・グアジニ“Dieux du Stade”を語る】

Q: 選手の33枚の写真は昨年よりソフトですね。それは意図的な選択ですか?
「原点回帰と言われるかもしれませんね。写真は演出においてよりクラシックです。選手達は私に古代ギリシアの神々を思い起こさせます。我々は彼らの肉体を引き立たせるために、カラーを採用してモノクロを捨てる選択をした。鎖は08年版カレンダーの主たるテーマです。それは選手のボールへの愛着、ひいてはラグビーへの愛着を象徴しているのです」

Q: 誰が選手達を撮影したのですか?
「写真はルーヴシエンヌにあるデュ・バリー夫人の音楽堂のネオ・クラシックなロケーションで撮影されました。撮ったのはアメリカのフォトグラファー、スティーヴン・クライン。世界で5本の指に入る写真家です。カルバン・クラインとドルチェ&ガッバーナのキャンペーンは彼の仕事。マドンナやベッカム夫妻の写真もまた彼です。私が得た最初の反応はとても好意的なものでした」

Q: 今年はカレンダーにラグビー選手しかいませんね。
「おっしゃるとおり、フランス、イタリア、アルゼンチンの選手達です。彼らは多くはドミニシ、スクレラ、クレール、ポワトルノー、パリセ、ベルガマスコ兄弟やコルレトといった代表選手です」

Q: 彼らが選ばれた理由は?
「もちろんその肉体美とスポーツのクオリティに応じて選ばれました。毎年、大勢のエージェントが彼らの選手達をカレンダーに載せようとコンタクトしてくるんですよ。我々はたくさんの申し込みと志願者の写真を受け取っています」

Q: 選手達にはお金が支払われていますか?
「参加と引き換えに選手達は約4,000~5,000ユーロを受け取っています。それは肖像権の譲渡に当たるものです」

Q: “Dieux du Stade”は8年前から、スタッド・フランセの型にとらわれないイメージに貢献していますね。
「ええまったく。カレンダーはクラブのコミュニケーションの一環です。カレンダーはラグビーに関心がなかった一般の人々の目に触れながら、その人気に貢献してきました。我々はそれがラグビー選手のイメージを変えたことにも気づいています。忘れてはいけません、彼らは以前はよく馬みたいに思われていたんですよ。今では連中はグラマラスになりました」

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2007.06.24

 雲と天気(改訂版)

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これはひつじ雲か鰯雲なのか、昨日の空はこんなでした。その前の日は夕方にお天気雨がキョーレツに降り、かの方々の盛大なお輿入れがあったようです。妙な天候ですね。

私が小学生の頃読んでいた図鑑に、「ひつじ雲(高積雲)が出ると晴れ、鰯雲(巻積雲)が出ると天気は下り坂と」書いてあったのを覚えているんだけれど、そもそも私にはいまひとつ羊と鰯の区別がついてないし、形状はどう見ても羊にもかかわらず、たちまち空が羊の大群でぎゅうぎゅうに埋まって重たい雨が降り出すということもあったから、図鑑の内容の真偽はよく分からない。
画像の雲は鰯雲の方でしょうか。ともかく今日の天気は雨でした。鰯雲は秋の季語(たしか)ですが、鰯は今が旬ですねェ。

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スウェーデンの切手みたいな雲が出ていた。これは巻雲(たぶん)

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2007.03.02

 紅梅・白梅

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Umenohana

それで思い出しましたが、尾形光琳の代表作たる紅白梅図の屏風、あれは両岸の梅の木が男で真ん中の川が女、つまり「嬲(なぶる)」という字を図化しているのだ、なんて説をとなえる方もいらっしゃるそうですね。図像の解釈には時々「いくらなんでもそれは」なケースもあるけど、「キニナル絵画」のエントリは、まあいわばそのテのパロディのつもりなのです。
先日のデューラーのことを言うと、あれはまあ、つまりアダムの左側にある木がズバリ「自粛なし」の男性のヌードの形をしてるみたいなんですけどこれどうですか、って話なんでして、最低の下ネタで反省しています。やりすぎると※ウィルソン・ブライアン・キイみたいになっちゃう。
(※ 「○○社のクラッカーの表面には性的な文字が埋め込まれている」とか、広告におけるサブリミナルについていささかトンデモな著書を何冊かものした方)

トンデモといえばですが、少し前に話題になった 『ダ・ヴィンチ・コード』ってあれはどうだったんでしょう。私は小説も映画も見てませんが、内容を伝え聞くところによるとどうもネタくさい。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』 でイエス・キリストの左にいる中性的な人物がマグダラのマリアとか、それは普通にヨハネだから。レンヌ・ル・シャトーの話自体は、それよりずいぶん前にコリン・ウィルソンのオカルト本経由で読みました。
エンタテイメントというものは別にそれでもいいんですけど、説得力が失われるギリギリの線というものがあって、『ダ・ヴィンチ・コード』の著者が1つマズかったのは、あの小説が「事実に基づいたもの」と書いちゃったことじゃないかな。狙ってるんだろうけど。

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2006.12.20

携帯写真日記・ささやかな日本の四季

カメラ付き携帯の写真のモアレ状の空には前から頭が痛かったんだけど、最近紅葉したモミジの木を撮って改めて携帯の限界を知る。細部が完全につぶれとる…。しかし自分は「通りすがりにテキトーに撮る」というスタンスになんとなく妙なこだわりがあるのだった。

しかたがないので落ち葉の吹き寄せを撮ってみる。

Hukiyose1

年末年始を前に、そのへんの駐車場にてリゾートビーチの砂浜を擬態する落ち葉たち。
「ワイハァ~」って、死語だよ君達。

Hukiyose4


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2006.12.12

増殖ドット

ヒメツルソバの花がなんとなく目について、最近こればっかり撮っていた。
花というより花粉そのものの顕微鏡写真というか、むしろカビの胞子というか粘菌というか、一見カワイイがむっちゃくちゃ繁殖しそうな不穏な形状である。事実増えるらしい。

Hime

Hime2

Hime3

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2006.12.05

ベズの木

90年代初頭のマンチェスターから時空を越えニッポンの庭先で躍動するベズのソウル。その残像。

Karin

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2006.12.02

そして土に帰る

晩秋のある日、大きな腹を抱えたメスのカマキリが産卵場所を探して石段を上っていた。春に孵化する卵を産んだそこが死に場所になる。

Tourou

おそらく満開だった頃より美しいだろう

Rose

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馴れ合う自然

朱に交われば

Momiji1


黄に交われば

Yellow

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2006.11.16

秋はいろんなものが落ちているので

落ち葉

Ochiba6

サザンカ

Sazanka

足跡化石

Asiato

これは…

Nyanko2

落ちていたわけではない

Nyanko

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2006.11.07

木の実の影法師

Kinomi

朝からの強風でずいぶん木の実が落ちた。踏まれて蹴られて散り散りになる途中、秋の午後の光線でつかの間の秩序が生まれる。

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2006.11.01

植物の主張

「出してエ~、ここはタマシイのロウゴクなのです」

Help

「うぜーざんす、てめえ轢死上等枯死上等の路上坪庭をやってみますか」

Tsuboniwa

馬鹿におなりなさい、何事も馬鹿におなりなさい
庭に植えられはや○年、こんなに慣れてしまった

Akibara

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2006.10.30

秋色猫

秋冬物の季節といってもアンダーコートの重ね着しかなさそうな猫達のオシャレの見せどころは背景とのコーディネイトだ。キジトラと赤猫が元気。落ち葉の中を火のようなオレンジ色の猫がもったいぶって歩いていく。

Akinohi6

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2006.10.06

ライク・ア・ローリング・ストーン

Weber2いよいよ14日はフランスのラグビーファンのお楽しみ、スタッド・フランセ・パリ対ビアリッツ・オランピック・ペイ・バスク@スタッド・ドゥ・フランス。今季序盤はトゥールーズと共にいまひとつパッとしないビアリッツですが、ここはひとつ本気を見せたいところ。ターンオーバーを採用しているスタッド・フランセも、ほぼベストメンバーで臨むんでないかな。クァー見たい。
ガルティエは最近ポジションもちょこちょこいじっていて、なぜか若手フッカーのKayser君が3列目をやらされているんだけど、ワタクシ的には魅力的なオプションだ…ディミトリがアレなら彼が投げればいいじゃないすか!

この試合のチケットは9割がた売れている模様で、グアジニ会長によれば、今季はカラオケはやらないけど(ゴスペルが入るらしい)、またお客さんがびっくりするような趣向を用意しておりますよ、とのこと。
たぶんグアジニのモットーは「転石苔むさず」というやつじゃないかと思うんだけど、先日発売されたカレンダーについて、あちこちで「これはエロスかポルノか」という今さらな議論が交わされているのは、もしかするとファンの間にも、走り続けるスタッド・フランセに「彼らはどこに行くんだろう」という漠然とした思いがあるのかもしれません。

そのカレンダーですけど、発売されてみたらやっぱり公式サイトに出た以上に露出がハンパでなかった。「この写真は好きじゃない。わいせつで子供には見せられないよ」という男性もいれば、「それは大げさ、きれいな写真だと思うわ」、「もしこれが女性のヌードだったら、スキャンダルだと騒がれたかしら?」という女性もいるし、まあ、議論好きが多いフランス人に、格好のネタを提供したという点では成功なのかも。
メールヌード・フォトの分野は男性が男性をホモセクシュアル的な視点で撮ったものが多いけど、思うに、女性とっては「当事者でない」という逃げ道があって、意外と抵抗が少なかったりするんじゃないのかな。

「あー見えちゃってるのねー」っていうのはあるけど、それがすなわちエロティシズムかわいせつかという話になると、ちょっと違うような気がする…つまり、基本的にこれはコマーシャル・フォトに氾濫する性的イメージの延長線上で撮られていて、挑発的ではあるけどどちらかといえばスタイリッシュな、まあだから、商業用の「カレンダーとしては」これでいいわけ。すでにラグビーのカレンダーとはいえない感じだけれども。
ヴィヴァンコはファッション写真的なレトリックは巧いし、バイヨンヌのアルヘンティーナJuan Martin Berberianの、男性下着のCMみたいなモードっぽい写真は、やっぱこういうのが本領かなって気がする。

上の画像はカレンダーとは関係なく(買ってないすよ!)、89年のKnopf版ブルース・ウェーバーの写真集の1頁。単なる持ち物自慢ですッ(いやらしい)。このテの写真もかわりばえのしない世界といえばそうなのよね。

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2006.07.21

ナニカノカタチノクモ

Yuuyake77たとえば「空」という言葉1つとっても、イギリス人のイメージする空と、カリフォルニアの住人の思い浮かべる空と、日本人の考える空はそれぞれ違うはずで、翻訳を読むもどかしさはそういうところ。自分は育った風土がはぐくむ感覚をかなり重要に考えていて、結局のところ外国人の感覚はリアルには分からない。でもコミュニケーションは、絶対に分かりあえないという絶望から始まるものではないのでしょうか、と思うわけです。

そんな話はともかく、ヨーロッパの風景の写真などを見ていると、アチラの風景画に描かれているような雲がほんとに出るんだなー、と思います。日本の空の雲は、よくしたもので、もうちょっとこう…情緒的な気がするけど、夏空の雲は比較的あっけらかんとしていて面白い。

低気圧が近づいた夕方の空にいい感じの雲が出ていました
Kumo3

Kumo4

頬をふくらませた若いサテュロスの横顔(←こっち向き)に見える
(分かりやすいように画像を90度倒しています)
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数分後にはこんなまがまがしいありさまに
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地平線付近を諸星チックなものが歩いてオル
Yuuyake1

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2006.06.13

風景写真の快楽

Matsue電車に乗って高架からボンヤリ町並みを眺めるのは好きで、人間小さいよなと思うこともあれば、すれ違う無数の一瞬の日常にクラッとする時もある。ブリューゲルの“雪中の狩人”を見るような感じというか。猫が無防備に屋根の上で眠り込んでいたり、草むらで踏ん張っているのを見つけると、ふふん油断しちゃって、なんてニヤニヤしたりするものです。
それはさておき最近、俯瞰的に風景を撮影した写真が目につくような気がしていて、それが個人的な気分なのか、世の中的な流れなのかは分からないけれど、それらはどこか似た視線を持っているように思ってました。

今月の美術雑誌に、ミニチュア模型みたいな風景写真を撮る若手写真家、本城直季のインタビューが載っていたんだけど、このテの写真のコンセプチュアルな側面、つまり自然と人工とか、虚構と現実とか、人間の営みなんてちっちゃいものだよねみたいな説明は、されてしまうとかえってつまらない場合もあるもので。この方の写真の場合、最初に目を惹くのは何よりそのスタイルからくる驚き(現実の風景がミニチュアに見える!)なんだけど、本質的にはもう少し情感的なレベルで見られてしまうような写真なのかもしれないし、何となく今の時代の気分に消費されそうな…ちょっと危うい感じ。
http://www.stairaug.com/ARTIST/honjo/img/002.jpg

そもそもは、何ヶ月か前に同じ雑誌で見た松江泰治の写真がずっと気になっていたんです。“JP-22”というシリーズの、富士川河口を上空から空撮した1枚で、一見して抽象画かと思い、よく見ると河口から暗い色の海に伸びた砂州に、筆で刷いたような波やタイヤの轍が走り、その上に点々とした車や人が小さく、何かの奇跡のようにそこに。
http://www.taronasugallery.com/pub/023.jpg
http://www.taronasugallery.com/exh/054/1.jpg

何かひどく感じ入ってしまって、同じ写真家がイギリスとスロバキアの風景を撮影した写真集を購入(画像)。主に町並みや建築物が、大部分は高い場所からほぼ同じアングルで撮られ、左右のページに、おそらくは非常な厳しさをもって併置されています。それは近代建築と古びた町並み、あるいはイギリスと旧共産圏のコントラストだったりすることもあれば、違う町の風景があたかもひとつながりの写真のように置かれていることもあるし、あるいは、草上でモデルの撮影をする人々ののどかな光景と人気のない墓地が─それぞれまったく等価に─並べられていることもある。

写真集の帯には「神は細部に宿る」という、建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉が引いてあって、そのとおりに視線は細部にのめりこんでいき、そうして写真は「物語的機能を失調」してしまう。周縁がトロンとピンぼけした本城直季の写真にちょっとだけもどかしさを覚えたり、作為が出すぎているように感じるのはそこなんだろうなきっと。

“JP-22”の空撮写真では、ヨーロッパの町並みのシリーズで見られたような高度でのディティールは当然とんでいるのだけど、芥子粒のような車や人影に気づいて、そこからイメージが風景として再構築される瞬間はかなり刺激的といえます。風景がかくも厳しく、しかし快楽的に写し出されていることの驚き。「神の視点」といえばそうかもしれない、が、日本人の自分の感覚としては神々はやはり万物の細部に宿り、その交歓に何かこう、「梵我一如」という言葉を思い出してしまった。写真集欲しいけど高ス。

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2006.05.27

うなぎ猫

Unagineko

未来派猫。こっち→向き。

Unagineko2

こんな猫さんでした。
光線の少ない時に撮ったり、壊れたカメラで撮ったりすると、当たり前だけど何が写るか分からなくて楽しい。まっ暗闇の事件現場で勘でフラッシュを焚いて撮影したNYのカメラマン、というかパパラッチかな、がいるけど、あの写真はいろんな意味で凄いよ…

前方から自転車で、楽しげに何ごとか独り言を言いながら近づいてきたじいさんが、すれ違いざまに高らかに「5月25日は、恋の日だ~」とのたまった。そんな日。

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2005.11.09

不思議な秋の日

携帯で撮った。涅槃仏の形の雲の上に月。雲の形に気づいたのは、後で写真を見直してからだった。月を撮ったつもりだったのだけど、わざわざ中心から外して雲をぴったり入れているのが不思議だ。
右手の木の上方に小さい金星が写っている。

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確かに何かに見られているような気がした。

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2005.07.15

壊れたカメラで

確か諸星大二郎の漫画だったと思うが、八重洲の地下街に入ったきり迷って出てこれなくなる男の話があった。自分は白昼の大久保で、ねじ式みたいに奇妙に現実感のない路地に迷い込んだことがある。日常はいとも簡単に反転する。

この猫はいつもの散歩の途中で、ふらりと怪しげなT字路に進入してしまった。奥には暗い異界が開けている。

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出口はどこ

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結界

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2005.06.26

6月の最後の週

すべては夏に始まる。
夏は降りてゆくことのできる底辺とよりかかることのできる支柱を持っていて、
人は郷愁から遠ざかる推進機を新たに作動することができる。
ひとつの愛が、ひとつの作品が、夏に始まる。
ぼくは6月の最後の週の狂気が好きだ。
ぼくの映像は夏の灼熱からゆっくりと生まれ出てくる。
         -ベルナール・フォコン Bernard Faucon 「飛ぶ紙」

ベルナール・フォコンの写真集を、毎年この季節になると何となく取り出してみる。マネキン人形を配して撮影された写真は、彼の少年期のパーソナルな記憶に基づくものでもあり、同時にもうちょっと普遍的な記憶の本質に連なっている。夏の記憶が、あらゆる記憶の中で最も鮮やかなのはなぜだろう。フォコンの写真の正方形の中に溢れる光線とその既視感に少しくらくらしながら、そんなことを考えた。

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2005.06.22

猫に間をもたせてもらおう

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2005.03.14

カメラVS

更新日記の流れで、オノデラユキさんの写真の話をもう少し。

「真珠のつくり方」っていうすごく印象的な作品があって、群集の上に奇妙な光の玉が浮かんでいる、昼とも夜ともつかない不思議な光景の写真なんだけど、この光の正体はなんと、カメラの中に入れたビー玉の影なんだという。
カメラ愛好家にとっては、冒涜的行為かもしんないね。「やっぱりライカ」みたいな、小型精密機械に対する数寄者的な愛好のあり方っていうのがあるでしょう、酒器に凝る骨董みたいなね。実を言うと、カメラの内部に異物を入れちゃう強引なやり方は、けっこうツーカイだった。

少し作為が勝ちすぎている作品もなくはない気もするけど、オノデラさんにとっての写真の定義は、日本語で言う「真実を写す」ではなくて、「光(フォト)で書く(グラフ)」だというのにはなるほどだった。

オノデラさんの写真展は4月中旬まで大阪の国立国際美術館で。

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2004.09.16

帽子の記憶

今となってはそれが夢なのか現実だったのかも判然としないのだけど、母親の話によると、確かにそれはあった。
子供の私は家族と一緒に電車に乗っていた。その時麦藁帽子をかぶっていたのだし、電車の窓は開いていたのだから夏のことだったのだろう。その赤い麦藁帽子は、おそらく私のお気に入りだった。この小旅行のために買ってもらったものだった。だから帰り道の電車の中でもずっとそれをかぶっていて、そしてその帽子は、母親の忠告どおり、山あいの雑木林に入った所で風に飛ばされていってしまったのだった。2歳を過ぎた頃の話だ。

取ってきてくれと泣いて叫んだのを覚えている。乗り換えの駅の売店で、母が新しい帽子を買ってくれるというのを私は拒否したそうだ。そんなわけで、代わりの帽子は私のもとには来なかったから、私はその喪失感をずいぶん後まで引きずることになった。
いつの頃からか自分の記憶には、飛ばされた帽子を拾い上げて、電車に向かって手を振っている男の子と女の子の姿さえ上書きされた。子供の私には、誰の頭に乗ることもなく、草むらでぽつねんとしている赤い帽子がかわいそうで仕方がなかった。

小さな頃のたわいもない体験が、なぜこんなに鮮烈に記憶に残っているのかは分からない。私の手元にあったのはほんのわずかな間だったはずの、その帽子にアップリケされたキャラクターの表情もはっきりと思い出せるし、今でも、あの帽子が頭を離れて飛ばされていく瞬間が、ふとよみがえる時がある。手を振る子供達のイメージに救われるときがある。子供の頃の記憶には、それが楽しいものであれ、なにか物悲しいような、奇妙な感覚が伴っている。

西条八十の詩に、ベストセラー小説に引用されて有名になった、同じような作品があったと記憶している。多分、子供というのはどこかで、「お気に入りの帽子」を失くしてしまうものなのだ。そして心の奥深くに喪失感を抱えたまま成長していくのだろう。


先日、ふと表紙に惹かれて写真集を買った。
乾いた土に轍の跡があるから今は駐車スペースとしてでも使われているのだろう、まばらな枯れ草以外何もない無人の空き地に、門扉だけがぽつんと立っている。画面の半分を占める無表情な空。少し、シュトゥルートやルフといった写真家の、意味や主観を排した風景・建築写真を思わせるところもある。
写っているのは、何の変哲もない現在の日本の風景だ。海岸、工場、団地の庭、錆びたトタンと剥げたペンキ、壁の染み、その湿度、そして唐突に、花。すべてが等価のままただそこに、沈黙している。

しかしこの無人の風景は見慣れた日本の日常のようでもあり、そうでないようでもある。いつか見たはずの記憶、いやそれは錯覚で、単に午睡の夢の中の光景だったのかもしれない。端々に見え隠れする生活の気配も、かえってその曖昧な不在感を際立たせているかのようだ。
私の帽子がどこかで、私が拾いに来るのを待っているとしたら、それはきっとこんな景色の中だろう。

そう、この咲き群れる立葵を、いつかどこかで仰ぎ見たことがある。あの道沿いの集合住宅に、かつて私は住んでいなかっただろうか。棕櫚の葉が影を落とす夏の路地の突き当たりに、何があるかも私は知っている。
私は確かに、あの赤い帽子をかぶってここに立っていたのだ。


“THE SIGN OF LIFE”    写真: 清野賀子  (オシリス)

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