2006.06.10

吾輩猫の行方

Yoruマンホールの蓋研究など、路上観察で知られるイラストレーター林丈二さんが以前、「路上探偵事務所」(毎日新聞社)の中で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の猫の子孫を探す、という大変に興味深い調査をしていました。小説の「吾輩」は「黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」、まあ要するに灰トラでしょうが、実はこの猫には実在のモデル猫がいて、それは黒ずんだ灰色の中に虎斑があって一見黒猫に見え、足の爪まで黒い福猫だったとのことらしい。

林さんはこのモデル猫の子孫とおぼしき(単に見た目が)猫を探して、「吾輩は猫である」が書かれた東京・千駄木周辺を歩くものの、これぞと思う猫には出会えなかったそうなんです、が、そこでタレント中川翔子宅の黒猫です。
http://yaplog.jp/strawberry2/archive/8139
http://yaplog.jp/strawberry2/archive/7534
爪の色までは分かりませんがどうでしょう黒に虎斑。当時吾輩モデル猫がいたのが千駄木、西片町の辺りで、中川宅猫が拾われたのが不忍池とすると、ひょっとすると彼女はえらい猫を拾ったのかもよ、なんてね。というか私はいったい何を見ているのかという話。

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2006.03.16

少数派でかまいません

sft2本を買おうとすると、随分前に出てるはずなのになぜかいつも初版第1刷だとか、もしくは絶版だとか、CDの国内盤が出ないとか(これは国内盤は買わないのでかまわない)、映画がミニシアターでしかかからないとか、好きになるスポーツ選手は名前の読み方も分からないとか、そもそもPSGとフランスラグビーってジャンル設定はどうよとか。
すごくでかいことを言えば、私のこれまでのマイナー人生は数の論理との戦いといってもいいかもしれません。が、まあ基本的に世の中的なことはあんまし気にしナイ。

「少数派でかまいません」というのは、私の熱烈愛読雑誌「猫びより」で連載中の松本英子さんのイラストエッセイ「ネコサブレー」から拝借しているんですが、私は「猫びより」はいつもまずこの「ネコサブレー」から読みます。松本さんの描く猫は、猫の「しょうがない感じ」が出てて好きです。
そんな松本さんの本が出ています。“プロジェクト松 ステキな東京魔窟”(交通新聞社)。雑誌「散歩の達人」の連載の単行本化で、東京の怪しく濃いいスポットに捨て身で潜入するイラストルポ(いきなり○力○善寺かよ)。駅前大衆酒場のホッピーの貼り紙につい反応してしまうというアナタにオススメ。都内在住でなくても多分大丈夫。「ネコサブレー」でおなじみ猫のハナちゃんのお顔も見られます。06年2月1日初版第1刷発行。


前エントリの続きいきます。ラグビーの記事を読み慣れてないこともあるんですけど、訳の精度ははなはだこころもとなし。

スタッド・フランセに移籍して2週間、フィジカルコンディションは完全ではなかったものの(「ポテンシャルの60~70%というところかな(笑)」)、Szarzewskiは9月30日のカストル戦(25-10で勝利)に初のスタメン出場、いきなり48分に移籍後初トライを挙げる。
9節トゥールーズ戦は10月15日、スタッド・ドゥ・フランスで開催。このビッグマッチで、Szarzewskiは28分にファーストトライを挙げた。自陣でのSzarzewskiのボール奪取の後、約80メートルの素晴らしいトライ。ウィングのように全力疾走し、ピチョットが一瞬引き継ぎ、それから再びSzarzewskiがトライを挙げにいった。スタッド・フランセは29-15でトゥールーズに勝利。

Q: スタッド・ドゥ・フランスの8万人の観客の前で、君のチームのファーストトライを挙げる。君はそれを夢見ていた?
「素晴らしいムードだよ、もちろん。スタンドはチームカラーの青一色で、8万人のサポーターがチームを応援する。なんて嬉しいんだろう、まだ信じられない、まだ鳥肌が立ってるよ。この震えは何なんだ!夢が現実になった。それに、ウォーミングアップ中のカラオケやチアガール。僕がいるのはベジエのスタッド・ドゥ・ラ・メディテラネじゃないんだ。それからすっかり頭を切り替えて、試合に入ることもできないといけないね」

Q: 君のトライについて話してくれる?
「穴が見えて、それが開いた。僕はボールを拾って、“ピック・アンド・ゴー”をした。振り切ったけど、援護が足りないのが分かったから、様子をみた。ピチョットが僕のところに来ているのが見えて、彼はすぐボールを僕に戻し、それから僕がトライに行った…そこから先はよく覚えてない…」

Q: あのトライは、君のチームにとって決定的に見えたよ。
「決定的だったかは、僕には分からないな。何より、チームは完璧に試合に入って、いいゲームをしたと思う。前に出て、試合を制し、ボールポゼッションを握った。あのトライは1つの結果でしかないよ」

トライ!
http://editorial.gettyimages.com/source/search/details_pop.aspx?iid=55929220&cdi=0

リーグ戦は、現在までで6トライ。
(まだ続く)

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2005.12.07

Different Names for the Same Thing

masyougatake「言葉が生まれて初めて世界は世界としての姿を持ち始めたのだ。鬼も神も魔も人間が名付けることによって生まれた。それ以前はただのモノだ」

諸星大二郎の「妖怪ハンター・魔障ヶ岳」(講談社)、やっぱり唯一無二だね、という諸星ワールドです。
ストーリーはあまり詳しくは書かないけれど、おおまかに言うと、異端の考古学者・稗田礼二郎と3人の男女が魔障ヶ岳の山中で正体不明の「モノ」に出会い、それぞれが「モノ」に名前を付けて(あるいは付けずに)連れ帰る。しかし、名前によって実体を与えられた「モノ」は、やがて名付けた人間の意志を越えて育っていき…、という話。
この話で重要な鍵になっているのが「名前を付ける」という行為です。言葉や名前を欲望でもてあそぶことが、時に恐ろしい結末を招くというわけです。


思い起こせば、フランスサッカーが当時無名だったガブリエル・エインセに付けた「名前」は、“guerrier”(戦士)というものでした。レキップなどのプレスは彼を「非の打ち所のない兵士」、「PSGの魂」などと呼んだし、それは私自身が心打たれ、彼の監督やチームメイト、サポーター、対戦相手までもが称えた彼の闘志、勝者のメンタリティにふさわしいものに思えました。

エインセがユナイテッドに移籍してから、ここ日本で彼に付けられた「名前」は、もっぱらあるラフプレーをする選手、というものだったように思います。だから冒頭の稗田礼二郎のセリフからすると、パリジャンが声援を送ったエインセと、移籍以降にスカパーで彼を見た人の目にしているエインセは、同じプレーをしていてもあるいは違う選手になっているのかもしれない。中継の中で、初めてフットボールを見る子供のような溌剌とした無邪気さでエインセのプレーに反応していたのは、実は最も年長の金子勝彦アナだったのではないかという気がします。

中継では酷評で、おかしいなそんなに悪かったかなと思い翌日現地のニュースサイト(複数)を見ると、いい評価をもらっていたりマン・オブ・ザ・マッチに選ばれていたりする、ということも少なからずあるんですが、考えるべきは、ピッチ上で起こる無数の事象の中で、「あるラフプレーをする選手」というのが彼のプレーの「本質」なのかどうか、彼がパリサポーターの熱い信頼を受け、ユナイテッドの1季目でサポーターや選手達からシーズンの最優秀選手に選ばれたことの説明になるのかどうか、ということではないかと思うのです。


syounoところで今は笙野頼子の純文学論争本「徹底抗戦!文士の森」(河出書房新社)を読んでいるところなのです。彼女は、既に自分の批評の図式では今の文学を分析することができなくなっている評論家が、勝手に文学を終わらせようとしていると言い、非常な憤りを持って文学を擁護しようとしている。
現在の文学の周辺では、評論家も編集者も「ヲタク」化し、もっぱら単なるエンタテイメントとしての評論ばかりがもてはやされているのだと(「だから面白ければいいという事になるのである。極端で皮肉で、エリートの喜ぶような冷笑的な身振りが入っていれば…文学という“下位”をわけもなく馬鹿に出来る」)。
要は無責任な批評がいかに真摯な表現者を抑圧しているか、ということですが、その「日本言語芸術の贅を尽くした罵倒の花園」と称されたソーゼツな論争の歴史を読みながら、状況はどこも似たり寄ったりなのかもしれないなあ、なんて思ったわけです。

「小説の面白さならフィクションでもいい。しかし例えば評論の図式に合わせるために事実をスルーしてもいいものだろうか」

海外のフットボールのファンをやっていると、スタジアムに足しげく通ったりしてライブな体験がしにくいこともあって知識偏重、しかもその知識も偏ったものになりがちな事情はあると思います。TVの中継自体も、どうしても「他者の視点」に誘導されてしまう。情報の送り手にせよ受け手にせよ、いかにリアリティを保っていくか、結局はそういうことなのではないかと思います。自戒も込めて。
付け加えれば昨今、批判こそが批評であるという風潮が非常にイージーに広まりつつあるような気がするのは、ちょっとばかり危ういなと感じるのです。


この「徹底抗戦!文士の森」の帯のデザインに、「魔障ヶ岳」に出てくる三輪の苧環(おだまき)そっくりなモチーフ(逆巻きだけど)が使われているのは、ただの偶然だろうか。あるいは苧環状に並べられた評論家の名前は、自らが名付けた「モノ」に人生を狂わされ苧環の糸を追って破滅した赤井助教授のように…という暗喩なんだとしたら…?


(ボチボチこの1年を振り返るに当たって、どう思われてもいいので書きました。タイトルはデス・キャブ・フォー・キューティーの曲名)

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2005.10.28

忘れてた

このところ夜間(10時から深夜1時くらい)、ココログのレスポンスが壊滅的に低下しています。大量のトラックバックスパムによるアクセス集中が原因とのことで、見たところ閲覧には支障なさそうなのですが、重い等のことがありましたら申し訳ありません。


読書日記を2本書いたところで、肝心の本の説明をほとんどしていないことに気がつきました。アハハ…。私も説明的なのってあんまり好きじゃない。

「集合住宅物語」は首都圏の代表的な集合住宅を、人々の生活もまじえて記録した書。
多田由美の「灰になるまで」は短編の選集、アメリカの孤独な人達の物語。「YUKIKAZE」は神林長平のSF小説「戦闘妖精・雪風」のコミック化、特殊戦闘機「雪風」のパイロットの話です。

多田さんの絵には独特の、痙攣するような感覚があって、そういう部分も含めてロックだなあと思う。ロバート・ロンゴも基本はロック。米モダンアート・シーンの人で、「JM」とか「アリーナ・ブレインズ」(マイケル・スタイプが出てる)、ニュー・オーダーの“Bizarre Love Triangle”のプロモ・ヴィデオといった映像作品も撮っている。

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2005.10.27

ラブ・ミー、プリーズ・ラブ・ミー

なおも読書日記。多田由美のコミックスを何冊か。

“Men in the Cities”のロバート・ロンゴの、「僕の作品はどれも“動きが取れない”というフラストレーションが基調になっている」っていう言葉を思い出す。不思議な温度。絵の表現は厳しく抑制されているのに、登場人物達はあられもない、と言ってもいいくらいに孤独で寂しく、寄り添う人を求めている。でもそこには、アメリカ文化のある種のセンチメンタリズム、例えば※スティーブン・マルクマスが奇妙にねじれたユーモアで周到に回避しようとする「それ」に陥ることを、ぎりぎりで免れている、切実さがあるようにも思う。

動きを表現する動線とか効果音とか、そういった記号は一切使われていない。『雪風』などは、原作を知らないので設定がよく分からないところもあるんだけど、それはそれで多田由美の表現になっているんだろうと思う。多分、説明的になるのが好きじゃない人なんだな。おそらく、SFというよりは登場人物の心理描写に重きが置かれている。
大体一般的に、文章表現とヴィジュアルな表現は全くの別物だということが分からない人が多すぎる。再現じゃなく、再構築、でしょう。

みんな寂しい。『冬のセーター』で最後に1つに寄り添う兄弟は、ゴッホと弟テオのイメージだろうか。

「灰になるまで」 多田由美(河出書房新社)
「YUKIKAZE」 神林長平原作、多田由美(早川書房)


※ペイヴメント“Shady Lane”の日本語対訳の、「君が凍えて泣いている姿はなんて美しいんだ」という部分、曲を聴かなくてもなんとなく、誤訳じゃないかな、と思ってしまうのは、マルクマスが「凍えて泣いている」君は美しい、なんてセンチメンタルな歌詞を書くわけがない気がするから。
you're so beautiful to look at when you cry freeze. Don't move...ではなくて、you're so beautiful to look at when you cry. Freeze, don't move...、か。

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2005.10.25

秋なので

なんとなく読書日記。

建築は好きだ。「集合住宅物語」(植田実著・みすず書房)にとりかかる。集合住宅の、何世帯ものさまざまな生活を収めるシステムとしての建築は単純に面白いし、時代の生活の意識が個人住宅よりも如実に表れたりする。
私は2歳くらいまでを田舎町の町営住宅で暮らしたのだけれど、道沿いの少し下った所に同じ形の棟が並んで、小さい頃からボンヤリしていた自分は、よく間違えて隣の家の玄関を開けていた。よく覚えていないけれど、住宅の人達は一番小さい子供の私を可愛がってくれていたらしい。家庭は裕福ではなかったけれど、あの頃は幸せだったと母は言っている。そんな記憶がある。

古い集合住宅に興味をひかれるのは、建築に影のように重なる人間の生活の痕跡、重層的な時間といったものに対してでもあるのかもしれない。時に亡霊のような。
80年代を中心とした局地的な路上観察ブーム、いわゆる「トマソン」というやつだけれど、あれは過去の人々の生活と、そして現在の不在の狭間に立ち現れる町中の残像の記録といえばそういうものだった。その物件の1つに、有楽町線麹町駅の構内にベンチ状に並んだ10脚の椅子があり、その背後の壁に、入れかわり立ちかわり腰掛けた人の頭や肩にこすられて、あたかも10人の幽霊が座っているかのような跡が浮かび上がっているものがあった。ボルタンスキーだ…。確かにここにいた人達の、でも、とても不確かな記憶が。

話がそれてしまった。この本で、同潤会アパートから代官山ヒルサイドテラスに至る集合住宅を撮影している鬼海弘雄の写真もいい感じ。
建築写真は時に、そのフォルムを超えて、そういった漠然とした郷愁に結びついてしまうことがあるように思う。ベッヒャー夫妻の給水塔ばかりを撮影した写真集を持っているのだけど、彼らの建築物の写真を並列したタイポロジーのモダンアート作品は別としても、こうして写真集を見ていると、厳格に感情的な要素を排したはずの作品が、図らずも車窓の記憶という意識の一番柔らかい部分に触れてくることに気づいたりもする。杉本博司の念写写真みたいなピンボケの建築写真シリーズは、建築の本質を焼き付けるという点では、だからきっと正しいんだと思う、けれど。

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2005.05.30

皆さんお疲れさまでした

いやしんどいシーズンでした。
PSGはパルクでの最終節をパウレタのゴールで勝利で飾り、とりあえず順位表の1枚目でシーズンを終了しましたが、夜中にネットで試合の行方を追っていたのは、実はPSGのためというよりは、ナントのために起きていたんだ。おめでとう。ラツィオもおめでとう。
それにしても、イストルがカーンを3-1と突き放した時の、「いっしょに~い~こ~う~」みたいな執念には戦慄しましたよ。

なぜ今日クロマティ高校の話かというと、「左側」からの流れなのですが、(本当に申し訳ない)、実際私は原作の方はあまり読んだことがなく、もっぱらアニメ版を見てました。リトル・フィートのアルバムジャケットのパロディにたまげた勢いでうっかりDVDも買いましたとも。ええ。
アニメ版の方はというと、あざといばかりの内輪ノリが「深夜15分枠、自主規制、テレビ東京」といった(特殊)事情になんとなくはまって、真夜中の投げやりな時間帯に、変な常習性があったのを覚えています。

池上遼一キャラをギャグ漫画に流用する手法自体は、既にしりあがり寿が初期作品でやっていて(確か)、その点ではそれほど新鮮味は感じなかったんですけど、翻弄される「普通の人」として、逆説的にギャグ的世界観を補完する存在であるはずの神山自身が既に逸脱している構図が面白いと思った。と、あえてすっごく冷静に書いてみた。

そういえば、「失踪日記」が話題になっている漫画家吾妻ひでおの対談記事を、芸術新潮の先月号で読んだのですが、そんなことになっていたとは知らなかったなあ…。もしかしたら私は、ホームレスの彼を見かけていたんじゃないか。まあ花輪和一の銃刀法違反の時も驚いたけど。
それでも実際、何人もの漫画家が壊れていく過程というのを、その作品上で随分目の当たりにしてきたような気がする。聞き手のいしかわじゅんをして、「10年やっておかしくなった」というギャグ漫画家という仕事に、ふと思いをめぐらせたりするのだ。

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2005.03.15

紅梅にのせてほすなり

池袋の沿線や、ほど近い目白にしばらく住んでいたことがある。当時の池袋東口にはまだセゾン美術館があって、現代美術の展覧会を見てから、出口のセルフサービスのカフェの明治通りに面したカウンターで、コーヒーとワッフルなんかで無駄話したり図録を眺めたりして、それからエスカレーターで地下に降り、アール・ヴィヴァンでアートブックのサンプルを立ち読みしたり、向かいのリブロの平積みをチェックする。時々エスカレーター脇のバーコーナーで、当時のリブロの店長さんとおぼしき女性が打ち合わせをしている姿を見かけたりした。

リブロのレジには時々、目白在住の作家、金井美恵子さんのサイン本が置いてあって、それも買う。どうしてこんな話をしているかというと、今うちの周辺では紅梅が満開を少し過ぎたところなんだけど、この時期また金井さんの「タマや」あたりを読み直したりしていて、それはいわゆる「目白四部作」の主要な舞台の1つが「紅梅荘」というアパートだからだっていう、しごーく単純な理由。

金井さんはセンテンスの長い独特の文体で、会話文も地の文に混ざって途切れるともなく続いていき、話自体も大抵、特に「発展的な」展開があるわけでもない。
ハーフで住所不定無職のアレクサンドルが、一応フリーのカメラマンで小説中終始うんざりしたり苛苛したりすごく疲れたりしている夏之を相手に、知ってる?「紅梅にのせてほすなり洗猫」という一茶の俳句があるんだよ、中学の国語の教科書に載っててね、これだけは、どういうわけか、おぼえてるのね。この場合、紅梅にのせてほすのは、白と黒のブチの猫が、色彩学的にもぴったりキマリだよね、ハハン?なんて話をダラダラやってる、そういう小説の時間に身を任せているのが、なんかすっごく気持ちいいのだ。

「細部に淫することで生じてしまう小説の物語的機能の失調状態の楽しさ」
(「恋愛太平記」あとがき)
うんそれそれ。

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2003.09.23

ヒマラヤの青い芥子

もちろん物事に根拠のない過剰な思い込みは禁物なのだけれど、最近なんとなく「フーン…」という興醒めな気分になったのは、ヒマラヤの高地に咲き、どういうわけかそのヒマラヤにしか咲かないと思い込んでいた“幻の”青いケシの花が、ここ日本の庭先でもフツーに咲いているということだった。

まあ、“フツー”というのには語弊があって、寒冷な場所でなければそれなりに栽培は大変らしいけれど、聞いたところだと、町のホームセンターの園芸コーナーといった、拍子抜けがするほど日常的なスペースでも苗は手に入る、ということらしい。幻どころの話ではなかった。

そもそもは先日、作家丸山健二が長野の自宅の作庭を撮影した写真集を見ていたときのことで、その本は、同じ作家の同じテーマのエッセイを読んでいるところだと言ったら、たまたま写真集を持っていた人からじゃあこれ読んでしまったからあげるよということでもらったものなのだけれど、その中程のページに、見覚えのある優美な青い花弁の花を見つけたというわけなのだった。

「卑しくも芸術に携わる者はすべからく異端の存在であるべし。別言すれば、反逆の徒たるべし」なんてことを今時迷いなく著作に書いてしまう、「孤高の」作家丸山健二が、自邸の庭に植えそうな花ではある。この青いケシの花(メコノプシス、写真のものはおそらくホリデュラ)は、ヒマラヤを撮影した写真の中でも時々見かけたけれど、チベットの荒涼とした大地と強烈な紫外線と希薄な空気のもとで見た幻覚のような原色の青と、この写真集の花が同じものだとは即座には気づかなかった。そもそも見たことがあるのは、4,000メートルの高地の荒れた岩陰に張りつくように咲くケシの花だったから、安曇野の庭で丹精され、すんなりと茎を伸ばした姿とは、その印象は別物である。

もっとも庭には庭のコンセプトがあるので、野生種の持つ厳しさはその中では単に夾雑なノイズにすぎないのかもしれないし、作家の家から臨む借景は、カイラスの威容などではなくあくまでも北アルプスなのだから、それはそれでまったく問題はないのだけれど・・・

もちろん、このせちがらい世の中にそんな浅はかな勘違いをしていた自分が悪い。しかし記憶をたどってみると、この花に抱いていたスペシャルなイメージは、どうも化粧品メーカーの香水の販促キャンペーンによって刷り込まれたものらしいということに思い至って、非常に情けない気分になったのだった。そう言えば、伊勢丹デパートのカウンターに、イソイソと香水のサンプルをもらいに行ったことがあるような気もする・・・結局、ヒマラヤの神秘から一番遠かったのは自分だったのである。
丸山健二に「女と、女に近い男という奴は」なんてマッチョな発言をされたとしても、これでは何も言えない。

 丸山健二著・作庭・写真 「ひもとく花」 (新潮社)
 丸山健二著 「安曇野の白い庭」 (新潮社)

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