2011.07.10

【自転車、本】 山運び

ツール・ド・フランス、ノルマンディのステージ。
プロトンがモン・サン=ミシェル付近を通過する(…したんだよね?)ところは中継されたのかな、見たかったな。

モン・サン=ミシェルというといつも、吉田健一の短編小説を思い出す。魔法使いとその召使が月明かりの夜に、海をはさんだモン・サン=ミシェルとセント・マイケルズ・マウントをこっそり置き換えて、元に戻すという…たったそれだけの、とても素敵な短編。

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2011.01.20

【本】 販促キャンペーンに乗るのはシャクなんだけどなあ

思い起こせば直近で芥川賞受賞作をまともに読んだのは、笙野頼子と…あと町蔵さんが最後くらいだった気がする。1996年にいっぺん「ないわ」と思った記憶はある。
朝吹真理子さんは伝え聞く話を総合すると初期の金井美恵子みたいな感じなのかな、だったら読むけど…

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2011.01.14

【美術、本、石】 絵のある石と妄想と

Toscanapn私の子供時代の採集癖はもちろん、何もない田舎の育ちだったことに由来するものなのでして、当時遊ぶものは自分で探すしかなかったのです。

川流れの石英を拾ったり、日常的に絶好の発掘ポイントは、側溝をさらった泥がカチカチに固まった小山でした。傘の先で突き崩すと、ビー玉や研磨工場のメノウ屑水晶屑が出てくることがある。(たまに硬貨が)
今思えばいい感じの紅十勝などもありましたが、まあ母に捨てられたのだろう…

天井の木目や空の雲に何かの形を探すように、石の形や模様を何かに見立てるのはなかなか楽しい遊びと言えます。
その後、バルトルシャイティスやカイヨワやその紹介者である澁澤龍彦の「絵のある石」についての著作が、なんとなく私に好きモノが数寄者に昇華したかのような錯覚を抱かせてしまったのは事実であり、今に至るのであります。


最近思うのは、一見してはっきり何かに見えるような具象系石は、面白いという以上の感興をそそられることが少なく、意外と飽きが早いということでしょうか。想像を働かせる余地が少ないということもあるのかもしれません。
フィレンツェ産の風景石、澁澤龍彦書くところの"トスカナ石"にはずっとあこがれがあったのだけど、実際に手にしてみて納得したら、それほどの執着はなくなった。

澁澤さんの収集はそれほど専門的なものじゃなく、あのかたの感性と美意識に基づいたもののようで、『ドラコニア・ワールド』(集英社新書)に掲載されているコレクションの中の、退色したメノウのスライスは染めだったのかなと思うし、バグダッドの琥珀のネックレスはどうも練り琥珀に見える。

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Cdf1pnドイツは伝統的に鉱物収集趣味に一定の権威があるお国柄らしく、文豪ゲーテが自然科学者でもあり各地の鉱物を集めて研究をしていたのは知られたところです。
メノウ収集家も多いそうで、私にもお気に入りの産地がいくつかあります。ドイツ人がメノウの不安な縞模様や色調を愛好するのは、なんとなく分かるような気がする。

ところで今週ちょっと細かいところを確認したくて、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの画集を購入しました。というのは、私にはどうも彼の作品には少し鉱物的な感触があるような気がする…時に模様石の上にでも彩色したかのように見えるのです。17世紀に流行したような。

このちょっぴりデンドリティックな作品は、ゾルンホーフェン産のしのぶ石とか…

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2010.10.20

【小説】 『野火』のこと

『野火』はこれまで読んだ中で最も時間がかかった小説の1つだけれど、難解だったという意味じゃなくて、途中2回ほど具合が悪くなってリタイヤしたので。その2カ所がどことどこかは、お読みになった方はお分かりじゃないかな。つまり、人間にタブーは存在する…
ちなみに前のエントリの元の文はコレです。あーほんとに恐れ多いことを…

「恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」


大岡昇平の技巧は精緻で、錯乱というにはあまりに透徹な語り手の心理に踏み込みすぎると足下をすくわれるかもしれない。私みたいに。
その後TVで市川崑の映画化を最初の15分ほど見たけれど、興味を惹かれるようなものではなかったな。市川崑は映像化にあたって、『野火』を"純然たる"反戦映画として解釈したようだった。どうなんだろうね、たぶん映画では省かれていると思うけど、あの小説はたとえば、「野の百合」の幻視じゃない?

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2010.03.09

【闘牛、書籍】 今週は読書

最初から一定の先入観を入れるのもどうかと思い、これまで入門書的なものは読んでいなかったけれど、そろそろちゃんと勉強しようということで、闘牛関係の本をいろいろ買った。"Histoire de l'Oeil"とか学生時代以来じゃん?

有名な、闘牛士グラネロの死の場面は、もちろん当時は闘牛のことは何も知らなかったし、1回の闘牛で闘牛士が通常2、3頭の牛を相手にすることも分かっていなかった。
そんなこともあって、コリーダとエロスと古代太陽信仰の秘儀のイメージが交錯する(ソレイユ、ウイユ、クイユ…)描写には、幾分混乱した印象が残ってました。今読んでみれば、それは基本的には整然と闘牛の進行に沿っている。

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2010.03.05

【映画批評、ラグビー】 批評で読んだ(ラグビー)映画

Biko (Robert Wyatt version) (YouTube)

(あえてロバート・ワイアットの方を。95年のラグビーワールドカップは見ていないけれど、アパルトヘイト撤廃にいたる時代を、私は主にミュージシャン達の運動と共に体験してました。そして15年…)


イーストウッドの『インビクタス』を、ハスミン(元東大総長)がどのように批評、というか擁護なさるのかが、実は映画以上に興味深かった。で、『群像』を買いましたのです。

ハスミンはあまりにも予定調和的に図式的な作品を前に、"これは映画を精巧に模倣したシミュレーションではないのか"と驚いた後、それは「不自然というほかはないまでに透明な作品の表象的な図式」であり、その透明さを「挑発」とみなし、そのように「映画の亡霊」として完璧に仕上げられた『インビクタス』は、むしろそれ故に「滅法面白い」とおっしゃる。
透明な映画を透明に批評する荒技かと思いますが、手癖ともいえるかもしれません。

私は観ていないから滅多なことは言えないけど、イーストウッドは、まさにベルビジェが95年ワールドカップを批判した「ボクスのジャージを着たマンデラ、カップを受け取る主将のピナール、そのすべてがイメージされ、そのようにならなければいけなかった」というやり方で、(挑発的に?)この映画を撮っているのかしらね…?
それは手法としては完全なフィクションとも言えるし、本質的には徹底したリアリズムとも言えるのかも。だってワタシタチは歴史上、現実に、どれだけの"透明な"物語を目にしてきたか分からないから。


ところでハスミンはこの映画を、(少なくともこの時評では)「ラグビー映画」としては観ていない様子です。私がヒソカにいろんな意味でドキドキしていた、ハスミンのラグビー批評参戦はたぶんない。
あたしのようなバカでも、サッカーファンの立場として『スポーツ批評宣言』は結構なトンデモだと思ったけれど、"ハスミンちょっと挑発してくれないかな"、と思うことはある。もちろん立派な方はいらっしゃる。けれど、私はここにはちょっと他者が必要じゃないかと思うんだ。時々。

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2009.07.03

つづくようです

Book0907やっぱり連載小説なのかエルナンデス(;´Д`

今週は更新をお休みして週末からのツール・ド・フランスに備えよう、というのが本来の私の予定であったんですが、まったくパリジャンどもはお騒がせだぜ。

それでもフランス紀行気分を盛り上げるため、このような本を買ってみました。建築はいいよな。

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2009.03.06

積ん読切り崩し中

Tsundokuあと4冊。

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2006.06.13

風景写真の快楽

Matsue電車に乗って高架からボンヤリ町並みを眺めるのは好きで、人間小さいよなと思うこともあれば、すれ違う無数の一瞬の日常にクラッとする時もある。ブリューゲルの“雪中の狩人”を見るような感じというか。猫が無防備に屋根の上で眠り込んでいたり、草むらで踏ん張っているのを見つけると、ふふん油断しちゃって、なんてニヤニヤしたりするものです。
それはさておき最近、俯瞰的に風景を撮影した写真が目につくような気がしていて、それが個人的な気分なのか、世の中的な流れなのかは分からないけれど、それらはどこか似た視線を持っているように思ってました。

今月の美術雑誌に、ミニチュア模型みたいな風景写真を撮る若手写真家、本城直季のインタビューが載っていたんだけど、このテの写真のコンセプチュアルな側面、つまり自然と人工とか、虚構と現実とか、人間の営みなんてちっちゃいものだよねみたいな説明は、されてしまうとかえってつまらない場合もあるもので。
この方の写真の場合、最初に目を惹くのは何よりそのスタイルからくる驚き(現実の風景がミニチュアに見える!)なんだけど、本質的にはもう少し情感的なレベルで見られてしまうような写真なのかもしれないし、何となく今の時代の気分に消費されそうな…ちょっと危うい感じ。
http://www.stairaug.com/ARTIST/honjo/img/002.jpg

そもそもは、何ヶ月か前に同じ雑誌で見た松江泰治の写真がずっと気になっていたんです。“JP-22”というシリーズの、富士川河口を上空から空撮した1枚で、一見して抽象画かと思い、よく見ると河口から暗い色の海に伸びた砂州に、筆で刷いたような波やタイヤの轍が走り、その上に点々とした車や人が小さく、何かの奇跡のようにそこに。
http://www.taronasugallery.com/pub/023.jpg
http://www.taronasugallery.com/exh/054/1.jpg

何かひどく感じ入ってしまって、同じ写真家がイギリスとスロバキアの風景を撮影した写真集を購入(画像)。主に町並みや建築物が、大部分は高い場所からほぼ同じアングルで撮られ、左右のページに、おそらくは非常な厳しさをもって併置されています。
それは近代建築と古びた町並み、あるいはイギリスと旧共産圏のコントラストだったりすることもあれば、違う町の風景があたかもひとつながりの写真のように置かれていることもあるし、あるいは、草上でモデルの撮影をする人々ののどかな光景と人気のない墓地が─それぞれまったく等価に─並べられていることもある。

写真集の帯には「神は細部に宿る」という、建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉が引いてあって、そのとおりに視線は細部にのめりこんでいき、そうして写真は「物語的機能を失調」してしまう。
周縁がトロンとピンぼけした本城直季の写真にちょっとだけもどかしさを覚えたり、作為が出すぎているように感じるのはそこなんだろうなきっと。

“JP-22”の空撮写真では、ヨーロッパの町並みのシリーズで見られたような高度でのディティールは当然とんでいるのだけど、芥子粒のような車や人影に気づいて、そこからイメージが風景として再構築される瞬間はかなり刺激的といえます。
風景がかくも厳しく、しかし快楽的に写し出されていることの驚き。「神の視点」といえばそうかもしれない、が、日本人の自分の感覚としては神々はやはり万物の細部に宿り、その交歓に何かこう、「梵我一如」という言葉を思い出してしまった。写真集欲しいけど高ス。

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2006.06.10

吾輩猫の行方

マンホールの蓋研究など、路上観察で知られるイラストレーター林丈二さんが以前、「路上探偵事務所」(毎日新聞社)の中で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の猫の子孫を探す、という大変に興味深い調査をしていました。小説の「吾輩」は「黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」、まあ要するに灰トラでしょうが、実はこの猫には実在のモデル猫がいて、それは黒ずんだ灰色の中に虎斑があって一見黒猫に見え、足の爪まで黒い福猫だったとのことらしい。

林さんはこのモデル猫の子孫とおぼしき(単に見た目が)猫を探して、「吾輩は猫である」が書かれた東京・千駄木周辺を歩くものの、これぞと思う猫には出会えなかったそうなんです、が、そこでタレント中川翔子宅の黒猫です。
http://yaplog.jp/strawberry2/archive/8139
http://yaplog.jp/strawberry2/archive/7534
爪の色までは分かりませんがどうでしょう黒に虎斑。当時吾輩モデル猫がいたのが千駄木、西片町の辺りで、中川宅猫が拾われたのが不忍池とすると、ひょっとすると彼女はえらい猫を拾ったのかもよ、なんてね。というか私はいったい何を見ているのかという話。

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