2012.09.25

【リヒターbot】

というのも、すべての罪を他人に押しつけることによって、彼らは自分たちを絶対的善人に仕立てあげ、それによって、そもそも善行をおこなおうとする能力すら捨てたからである。

自分には悪意(無慈悲から、殺意にいたるまでの悪意)があることを、自分は完全ではないとか、ミスを犯すということと同じく認める必要がある。そうすることによってのみ、自分の良い面を効果的に発展させることができる。

悪意を抑圧すると偽善が生まれる。偽善とは「美徳の歪曲」にとどまらず、むしろ悪意を実現するためのもっとも洗練された方法なのである。
(ゲルハルト・リヒター 『写真論/絵画論』)


(「彼ら」は、お好みの言葉に置き換えてお読みいただければいいのではないかと思う)

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2011.02.23

【音楽、リヒターbot】 終ったー (Sufjan Stevens)

─芸術は、宗教性、信仰心、そして「神」への憧憬を実現するものである。芸術以外で実現しようとするのは、このきわめて重要な人間の特性の誤用である。そのときこの特性は食いものにされる。つまり、あるイデオロギーに奉仕させられてしまうからだ。芸術もまた、もし無目的という自由を放棄して、なにかメッセージを伝えようとするならば、「応用芸術」になってしまう。というのも、いかなる発言も絶対に拒否することでのみ、芸術は人間的なのだから─
(ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論)

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気が向いたときに少しずつ更新していたスフィアン・スティーヴンスのインタビュー。昨年末には切りよく終らせたかったのだけど時間がなくて、このたびやっと終りましたです(;´д`)ナガカッター
とはいっても一番最初の2問を飛ばしていたことに気づいたので、また時間があるときにやろう…

よくできたインタビューでした。アイデンティティを探し求めてアメリカ合衆国を旅するスフィアンが、もっと年を取って、いつかどこかに根を下ろすことができたらいいね、…そんな言葉でしめくくられる。
ほんとのところ、私はこのエントリを終らせたくないのかもしれない。彼の音楽に対する考え方は大好き。

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2010.06.09

【フランス闘牛、リヒターbot】 メメント・モリのファエナ 

「私が描いたのは、そもそも描くことが不可能な写真でした。死者です。はじめはむしろ、その問題の全体、当時の生々しい現実を描くつもりでした。でも描いていくうちに、まったくちがっていきました。まさに死へむかっていったのです。
もちろん、死が描きえないなどということはまったくありません。死と苦悩といえば、いつだって芸術の主題でしたからね。いずれにせよ、死というテーマ、それを我々が忘れてしまったのは最近になってなのです。結構な生活のおかげでね。」
(ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論)

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闘牛の見方がまだよく分からない。いい牛にうまく合わせているけれど凡庸ではなかろうか、と思うような時に耳が出ることもある。とてもいい牛だけどモビリティがありすぎて、むしろ闘牛士に創造性を許す間を与えない牛がいるように思う。

5月18日のセバスティアンの闘牛は反対に、私はかなり復調してきたと思ったけれどメディアの評はさっぱりしなかった。彼が3日前のようにリスクを冒さなかったせいもあったかも。でも、彼の指先まではりつめた美意識、技術に支えられたイマジネーションの豊かさと比較すれば、若いピナールはまだまだ生硬に見えた。
セバスティアンは楽団の音楽を聴きながら、それに合わせてファエナをしているんじゃないか、と思う場面さえあった。まるで牛とダンスのステップを踏むように。


6月3日ラス・ベンタス、アニヴェルセールのフェリア。セバスティアンは彼の1頭目で耳を1枚切り、2頭目は誰もがグランド・ポルトを確信したものの剣を失敗した。でも、今季私が見ることができた中で、彼の最高のファエナ。
「剣でグランド・ポルトを失った」、とメディアは見出しをつけて伝えていた。たしかにセバスティアンには残念だっただろうけれど、そんなに悲観的にとらえる必要もないと思う。そつのないファエナで剣を決めて耳を1枚と1枚…セバスティアンの闘牛はその種のいわばリアリズムとは異質なものだと感じる。

牛はビクトリアーノ・デル・リオ。セバスティアンのお父さんの牧場の牛はここの血統だったそうで、彼にとっても特別な牛なのではないかと思う。
実際、1頭目のムレタが始まってまもなく、この牛は彼に何かを与えてくれるだろうと思った。彼の闘牛には、その数分後には牛を殺すにもかかわらず、牛との交感としか表現しようのないような不思議なフィーリングがある。牛までもが美しい。彼は牛と話しながら闘牛をする。
私は闘牛を知る前、それは"牛と戦う強い俺"をアピールするラテンのマッチョな趣味だと思っていたけれど、セバスティアンの闘牛はそういったものとはまったく違っていた。

最近のチャットの中で、彼が「牛を殺すのは好きじゃない」、と話しているのが気になっている。彼は狩猟も釣りも、動物を殺すこと全般が好きではない。でも自分の人生は闘牛で、ファエナを完成するためには牛を殺さなければならない。セバスティアンにとって牛はアルテのためのアミーゴであり仲間であり、もし牛が敵だったら芸術作品は作れないだろう、と彼はいう。
剣の失敗は技術か運か、それとも迷いだろうか。いずれにしても、彼が剣を失敗するとき、私は彼が1人の人間だったことを思い出す。

セバスティアンの発言は矛盾しているかもしれない。でも人間の存在も生きることも、本来ひどく複雑で矛盾に満ちていて、それを受け入れる人と認めない人がいる、というだけのことだ。
そして優れた芸術はアンビバレントな葛藤の中から生まれてきたし、私はいつも相反するものを内包したあやうさが好き。死のないところに生はなく、その強烈なコントラストこそが闘牛なのだと。
生と死、聖と俗…人と牛とのかかわりを、ある種の官能性にまで昇華してみせるような闘牛をするトレロは、私が目にした中でも、それほど多くない。

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セバスティアンの1頭目で、ペレラとセバスティアンのキテの応酬は楽しかった。ああいうライバル意識ならいいな。
ガオネラ、タファジェラ、技の名前はよく分からない。ホセ・トマスがインペリアルにやっているのをよく見るのと同じ技だと思う。ペレラは牛を体の前の方で通していたけれど、セバスティアンは脇の下を通しているようだった。

あと、セバスティアンのバンデリジェロ、クーロ・モリーナの代役(?)がいい銛打ちをして、拍手を送られていた。


マリンブルーの衣装がセバスティアン、アップルグリーンの衣装がペレラ。
2人のキテがアレーヌを沸かせる。

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2010.03.06

【リヒターbot】 Here comes another winter

Jesus Jones - Right Here Right Now (YouTube)

長きにわたる冷戦が終わりを迎えたその時代、歴史の転機を目の当たりにして、東西の壁・人種民族の壁を突き破った向こうには何か明るい未来が開けているかもしれないと期待すると同時に、およそ人間の築く社会はいつどこでも大差はない、という一抹の諦念がありました。そして多くの場合、いくらかの人身御供が差し出されるかわりに、体制は巧妙に維持された。あるいは混乱と、もう1つの冬。

あの崩れるベルリンの壁の歓喜的なイメージは、実は多くのものを隠蔽してもいたのかもしれなかった。


画家ゲルハルト・リヒター。旧東ドイツ、ドレスデン出身。

「東ドイツでのできごと、いわゆる歴史的規模の民主革命。私はそれをみて感動し、将来の幸福な見通し、再統一されたドイツへの希望がさっと燃え上がるが、同時に懐疑と深い悲壮感におそわれる。ときには怒りさえ。
恥知らずにも日和見する政治家連中への怒り、何十年も狂信的なマルクス主義を標榜してきたかと思うと、今やふてくされて、知ったかぶりで自分たちの傲慢な思いこみを手放せないでいる知識人への怒りだ。

あるいは民衆の役割についての悲哀。民衆は結局ただ利用されるだけなのだ。民衆は操られたまま四十年間も牢獄の住人にさせられ、そしてそのままさらに百四十年間放っておかれるかもしれない。
今度は別の方法で利用されて、君たちがこの民主革命を自力で遂行したのだ、などといいくるめられている。今こそやつらを壁を突き破って送り込むのだ、西側へ行かせるのだ、という筋書きであるのはわかりきっているのだから。

何十年も偽善的で、残酷に「民衆」を苦しめ脅迫してきた同じものどもが、少し譲歩するというので、これみよがしに恩を売る。そして彼らが譲歩する、あるいは向きを変え、転向するのも一つの理由からにほかならない─権力維持のためである。悪党ども。」
(ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論)

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2010.02.09

【芸術】 今日はなんの日

Richter_2Googleのトップページが漱石の誕生日仕様になっているけれど、残念ながら猫がブチ猫である。

2月9日、現代美術にもっとも影響力を持つドイツの画家、ゲルハルト・リヒターの78歳の誕生日です。好きなんだ。


─我々を育んできた芸術と精神の世界はもっとも重要な世界だ。それは何十年間にわたる住まいであり世界なのだ。この世界のアーティスト、音楽家、詩人、哲学者、学者の名前を我々は知っている。彼らの作品と人生を知っている。政治家でも支配者でもなく、彼らこそ人類史だ。
そのほかの人間については、ほとんど名も知られていないし、なにか記憶として残っている名前があるとしても、それはもっとも恐ろしい記憶である。なぜなら、支配者がとにかく歴史になにか痕跡を残そうと思ったら、恐怖をもってするほかないからだ。カフカと皇帝ヴィルヘルム二世、この二人ほどかけ離れた人間はいない。─

(ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論)

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