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2014.06.27

↓以下は2006年サッカーワールドカップ決勝の後に上げたエントリの再掲。ジダンとマテラッツィの例のこと。なぜこれを再掲するのかはご想像にお任せするとして…私は毎回同じようなことを考えながらワールドカップを見てるんだなって。


(再掲)フットから学ぶべきはたぶん忍耐と寛容と多様性への想像力だ

決勝でのジダン退場の余波は、内外にそれなりに強烈なインパクトを残していまだ継続中。普段フットにさしたる関心のない人までもがここぞと言及しているのを聞くにつけ、なんだかなあという気分にさせられたりもしたんだけれど、まあワールドカップとはそういうものだ。

この一件が、こんなの前科持ち同士の出会い頭の事故じゃないですか、じゃすまなかったのは、これがいわゆるフットの祭典のクライマックスでの出来事だったからで、全世界のお茶の間の前で、フットボールのもう1つのデモーニッシュな顔が表出してしまった。
だからこれは、どっちが正しいとか悪いとかじゃなく、全世界にフットの「ネガティブなイメージ」を与えてしまった責任はとりなさいよと、そういうことだと思うんです。

でも同時に思うのは、最近はすっかりご大層なものになったフットボールも、そのバイタルの根源たる部分は、こういう生々しくて混沌とした…人間くさいものなんじゃないか、ってことですね、良くも悪しくも。
ジダンのアレは多分直らない。それが彼の育ったところでの幼少期に起因するものだというのが本当なら、彼のアイデンティティに根ざすものだろうから。でもここまでの彼のキャリアは、あの衝動との戦いでもあったんじゃないかという気もする。その意味では、彼の現役最後の試合はまさにオール・アバウト・ジネディーヌ・ジダンだったし、光と影のオール・アバウト・フットボールでもありました。


ここからは一般論になるけれど、ワールドカップの中継の合間に、VIP席のご満悦なおエライ皆さんの顔が抜かれたりなんかして、生臭いわァと思いながら、ふと華々しいワールドカップの裏と現実を見るような、さめた気分になったりしませんか。
実際、フットボールの「ポジティブなイメージ」は、フットを利権とする人達にずいぶんと便利に使われているわけだし、スター選手のイメージで商売をする人達にとっては、フットボーラーは超人でなきゃいけない。

モダンフットボールの肥大化とともに、フットの世界はますますそのリアリティから乖離していきます。イメージを商品として扱った挙句、今では現場はカネと虚飾と責任のなすりあいよ?私にとってはピッチのドつき合いよかそっちの方が問題だな。


90-95年にカンヌの下部組織でコーチし、当時のジダンをよく知っているギ・ラコンブが10日、この件に言及しました。
「人間を尊重すべきだ。我々には分からないことが起きた。とても大事な試合中に、きっと彼の心の一番深いところを傷つけた言葉があったんだろう。それに、1ヶ月にわたる厳しいコンペティションの最後で、心身ともに疲れていた…。それでも今回のワールドカップで、彼は懸命にこのチームを引っ張った。もちろんあれはラフな行為だ。模範的ではない。だが、そのことで彼についての私の見方は何も変わらない。ヤジッドは強さも弱さも併せ持つ1人の人間だ。彼はいつもあの欠点を抱えていた。それはカステラーヌでの彼の幼少期に起因している。彼はリスペクトされるべきだった」

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