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2009.03.31

代表フッカーのここまでの道のり

Dim0903aいろいろあった今回のシックスネイションズで、スザルゼウスキは全試合でスタメン出場し、ポジティブな評価を残すことができた1人です。友達のニヤンガいわく、「何も恐れない」気質。大会中、パリジャン紙に彼のバイオ的な記事が掲載されていたので、まとめました。


スザルゼウスキの両親は、北部炭鉱地帯ノール=パ・ド・カレーの出身。彼らは出会った時、この町の生活を抜け出して南部へ行こうと決めた。そしてナルボンヌに移り住み、ディミトリが生まれた。ポーランド系の父親は息子をモトクロスの選手にしたかったようだけれど、ディミトリは楕円球の方が好きだった。7歳でラグビーを始め、それからベジエのラグビースクールへ。

モンペリエでSTAPS(Sciences et Techniques des Activités Physiques et Sportives)の学生だった頃、スザルゼウスキはベジエの相棒、ニヤンガと一緒に住んでいた。ある日彼らは学生達のパーティーに行き、そこでスザルゼウスキは彼の妻になるフロランスと出会ってたちまち恋に落ちた。
それから2人は早い結婚をし、スザルゼウスキは21歳で父親になった。今は5歳の息子ユーゴと2歳の娘アンナの2児の父。家族は彼の力の源で、若くして家庭を持ったことで普通より早く成長できた、と。

そんな彼も、ニヤンガといる時は学生の頃に戻り、時におバカなこともする。
「ディミトリがトゥールーズの僕の家に遊びに来た時、"おまえのとこのプールに一番乗りさせてくれよ"と言い出してさ。2時間後、僕達はプールに飛び込んだ。1月だったんだけどね。水温は2℃だった」(ニヤンガ談)

05年にベジエのD2降格が決まった時、スザルゼウスキのスタッド・フランセへの移籍交渉は難航した。育ったクラブとの対立は、彼には難しかった。彼は周りの誰もが称える実直な性格をしている。
「こんな話をするのも変だけれど、フロランスと僕はベジエを出発する時泣いた。自分達がどこへ行こうとしているのかも分からなかった」

それからスタッド・ジャン=ブアンに近い郊外のブローニュ=ビヤンクールに家を買い、すぐにパリの生活に慣れ、クラブと代表の主力フッカーに。スタッド・フランセのチームメイトから"ジャン=ピエール・フランソワ"(フランスのシンガーの名)とあだ名をつけられた彼は、毎年クラブのカレンダーを飾るその顔に傷跡がないのを人から不思議がられるらしいけれど、実際にはその激しいスタイルで、鼻骨と眼窩底を2度骨折している。
フロランス夫人は、試合のたびに夫が重傷を負いはしないかと心配で仕方がない。「彼がグラウンドに入るや、私ははらはらし通し。いつになってもそれは何も変わらない」

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