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2005.12.08

イミテイション・オブ・ライフ

昨季も早かったけど今季もチャンピオンズリーグが終わりました。なんということでしょう。天ぷらだの鉄砲伝来の話なんかしてる場合じゃないですよ金子さん。まあ過ぎたことは仕方がないので、過密日程でさらなる怪我人のリスクは多少は減ったのだというポジなことだけを考えてリーグと国内カップに集中する、しかない。

プロスポーツは勝ってナンボ、まあそれでも完璧な選手なんかいないし、チームも勝つときも負けるときもある、だからこそフットボールは人生の比喩でありうるんだ、っていうのが原点じゃないかと思うのですけどね。ロテンは確かに不調だけど、体格に恵まれなかった彼がそれでもフットボール選手になりたくて、自分の持てる武器だった左足を磨きぬいてここまで来たことを知っている。

年末をひかえてそんな殺伐とした近頃、もっぱら真夜中の猫イメージ検索、猫ブログ探訪で癒されるわけです。思わず日参してしまうところ(ヒミツ)の猫さんは、なぜかみんな女の子。

これまで身近なところにいたのはむくつけきオス猫ばかりでした。女の子はどうも避妊の手術が重そうでかわいそうで、もちろんオスだってかわいそうなんですけど、以前実家の猫(オス)が去勢手術して病院から帰ってきて、何だかお尻の周りをきれいに毛刈りされた上に塗り薬か何かをベタベタ塗られてすっかりその辺が濡れしょんぼりしており、内股でヨロヨロ歩いてパタンと倒れたりしているところを見ていると、痛ましくて痛ましくてならないんだけど母親と2人でつい口元がゆるんでいたりして、まあ女なんて残酷なものです。父が一人で憤慨していた。

shadow

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2005.12.07

Different Names for the Same Thing

masyougatake「言葉が生まれて初めて世界は世界としての姿を持ち始めたのだ。鬼も神も魔も人間が名付けることによって生まれた。それ以前はただのモノだ」

諸星大二郎の「妖怪ハンター・魔障ヶ岳」(講談社)、やっぱり唯一無二だね、という諸星ワールドです。
ストーリーはあまり詳しくは書かないけれど、おおまかに言うと、異端の考古学者・稗田礼二郎と3人の男女が魔障ヶ岳の山中で正体不明の「モノ」に出会い、それぞれが「モノ」に名前を付けて(あるいは付けずに)連れ帰る。しかし、名前によって実体を与えられた「モノ」は、やがて名付けた人間の意志を越えて育っていき…、という話。
この話で重要な鍵になっているのが「名前を付ける」という行為です。言葉や名前を欲望でもてあそぶことが、時に恐ろしい結末を招くというわけです。


思い起こせば、フランスサッカーが当時無名だったガブリエル・エインセに付けた「名前」は、“guerrier”(戦士)というものでした。レキップなどのプレスは彼を「非の打ち所のない兵士」、「PSGの魂」などと呼んだし、それは私自身が心打たれ、彼の監督やチームメイト、サポーター、対戦相手までもが称えた彼の闘志、勝者のメンタリティにふさわしいものに思えました。

エインセがユナイテッドに移籍してから、ここ日本で彼に付けられた「名前」は、もっぱらあるラフプレーをする選手、というものだったように思います。だから冒頭の稗田礼二郎のセリフからすると、パリジャンが声援を送ったエインセと、移籍以降にスカパーで彼を見た人の目にしているエインセは、同じプレーをしていてもあるいは違う選手になっているのかもしれない。中継の中で、初めてフットボールを見る子供のような溌剌とした無邪気さでエインセのプレーに反応していたのは、実は最も年長の金子勝彦アナだったのではないかという気がします。

中継では酷評で、おかしいなそんなに悪かったかなと思い翌日現地のニュースサイト(複数)を見ると、いい評価をもらっていたりマン・オブ・ザ・マッチに選ばれていたりする、ということも少なからずあるんですが、考えるべきは、ピッチ上で起こる無数の事象の中で、「あるラフプレーをする選手」というのが彼のプレーの「本質」なのかどうか、彼がパリサポーターの熱い信頼を受け、ユナイテッドの1季目でサポーターや選手達からシーズンの最優秀選手に選ばれたことの説明になるのかどうか、ということではないかと思うのです。


syounoところで今は笙野頼子の純文学論争本「徹底抗戦!文士の森」(河出書房新社)を読んでいるところなのです。彼女は、既に自分の批評の図式では今の文学を分析することができなくなっている評論家が、勝手に文学を終わらせようとしていると言い、非常な憤りを持って文学を擁護しようとしている。
現在の文学の周辺では、評論家も編集者も「ヲタク」化し、もっぱら単なるエンタテイメントとしての評論ばかりがもてはやされているのだと(「だから面白ければいいという事になるのである。極端で皮肉で、エリートの喜ぶような冷笑的な身振りが入っていれば…文学という“下位”をわけもなく馬鹿に出来る」)。
要は無責任な批評がいかに真摯な表現者を抑圧しているか、ということですが、その「日本言語芸術の贅を尽くした罵倒の花園」と称されたソーゼツな論争の歴史を読みながら、状況はどこも似たり寄ったりなのかもしれないなあ、なんて思ったわけです。

「小説の面白さならフィクションでもいい。しかし例えば評論の図式に合わせるために事実をスルーしてもいいものだろうか」

海外のフットボールのファンをやっていると、スタジアムに足しげく通ったりしてライブな体験がしにくいこともあって知識偏重、しかもその知識も偏ったものになりがちな事情はあると思います。TVの中継自体も、どうしても「他者の視点」に誘導されてしまう。情報の送り手にせよ受け手にせよ、いかにリアリティを保っていくか、結局はそういうことなのではないかと思います。自戒も込めて。
付け加えれば昨今、批判こそが批評であるという風潮が非常にイージーに広まりつつあるような気がするのは、ちょっとばかり危ういなと感じるのです。


この「徹底抗戦!文士の森」の帯のデザインに、「魔障ヶ岳」に出てくる三輪の苧環(おだまき)そっくりなモチーフ(逆巻きだけど)が使われているのは、ただの偶然だろうか。あるいは苧環状に並べられた評論家の名前は、自らが名付けた「モノ」に人生を狂わされ苧環の糸を追って破滅した赤井助教授のように…という暗喩なんだとしたら…?


(ボチボチこの1年を振り返るに当たって、どう思われてもいいので書きました。タイトルはデス・キャブ・フォー・キューティーの曲名)

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2005.12.02

ポップ・ミュージックは不治の病

dcfc最近どうも自分の文章がエモーショナルになりすぎているような気がして、後日見直してちょっとこっぱずかしい思いをしたりするんですが、それは多分、先頃リリースされたデス・キャブ・フォー・キューティー(以下DCFC)の、ええと5枚目ですか、のアルバム“Plans”を聴きながら書いているせいじゃないかと思う。

以前初めてDCFCの曲を耳にした時には、おーこれはなかなか胸に迫るねとか、ボーカルもかなりいい感じじゃないですかとか思い、後日バンドフォトを見て、心で「なー!!!」と叫んだりもしたわけですが、そういえばウィーザーの1stのジャケットを見ながら、「だ、誰がボーカル??」と悩んでいた時のことを思い出しました。

彼らは基本的に、新鮮味がどうとかそういう音じゃありません。なんと言うか聴いていて、「ちょっと待ったこの感じはどこかで…」という漠然とした引っかかりが、次々と音に押し流されていくような印象です。まあ、それもある意味ポップの特質なんであってね。でも、彼らは例えばティーンエイジ・ファンクラブあたりのように自覚的じゃない(ああでも“Your Heart Is an Empty Room”はもろにTFCの“Everything Flows”みたいなんだ)

曲がいいです。前のアルバムよりさらに内省的ですが開かれた音です。メジャーのアトランティックからの1枚目ということで、基本なところは変わりませんがアルバムとして完成度の高い世界観を作り上げています。
所々ちょっとイージーに流れるところもあるけど、まあインディ・バンドっぽくていいか、と思ってしまうような、聴かせる「力」がある。で最終的に、全体として見ればDCFCのスペシャルな表現になっているという、ここが大事。

秋になると、ちょっとメランコリックなギター・サウンドを聴きながら落ち葉の中を歩くのが好きで、定番は例年ロイド・コールの“Love Story”なんですが、、この“Plans”は、あんまりそういうシチュエーションにははまりませんでした。録音のせいもあるんだろうけど、静かな冬の夜に部屋の中で聴くのがいいんじゃないかな。暗闇に灯りがともるような気分になると思う。吐息に震える小さな灯火が。

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