« July 2004 | Main | March 2005 »

2004.09.16

帽子の記憶

今となってはそれが夢なのか現実だったのかも判然としないのだけど、母親の話によると、確かにそれはあった。
子供の私は家族と一緒に電車に乗っていた。その時麦藁帽子をかぶっていたのだし、電車の窓は開いていたのだから夏のことだったのだろう。その赤い麦藁帽子は、おそらく私のお気に入りだった。この小旅行のために買ってもらったものだった。だから帰り道の電車の中でもずっとそれをかぶっていて、そしてその帽子は、母親の忠告どおり、山あいの雑木林に入った所で風に飛ばされていってしまったのだった。2歳を過ぎた頃の話だ。

取ってきてくれと泣いて叫んだのを覚えている。乗り換えの駅の売店で、母が新しい帽子を買ってくれるというのを私は拒否したそうだ。そんなわけで、代わりの帽子は私のもとには来なかったから、私はその喪失感をずいぶん後まで引きずることになった。
いつの頃からか自分の記憶には、飛ばされた帽子を拾い上げて、電車に向かって手を振っている男の子と女の子の姿さえ上書きされた。子供の私には、誰の頭に乗ることもなく、草むらでぽつねんとしている赤い帽子がかわいそうで仕方がなかった。

小さな頃のたわいもない体験が、なぜこんなに鮮烈に記憶に残っているのかは分からない。私の手元にあったのはほんのわずかな間だったはずの、その帽子にアップリケされたキャラクターの表情もはっきりと思い出せるし、今でも、あの帽子が頭を離れて飛ばされていく瞬間が、ふとよみがえる時がある。手を振る子供達のイメージに救われるときがある。

西条八十の詩に、ベストセラー小説に引用されて有名になった、同じような作品があったと記憶している。多分、子供というのはどこかで、「お気に入りの帽子」を失くしてしまうものなのだ。そして心の奥深くに喪失感を抱えたまま成長していくのだろう。


先日、ふと表紙に惹かれて写真集を買った。
乾いた土に轍の跡があるから今は駐車スペースとしてでも使われているのだろう、まばらな枯れ草以外何もない無人の空き地に、門扉だけがぽつんと立っている。画面の半分を占める無表情な空。少し、シュトゥルートやルフといった写真家の、意味や主観を排した風景・建築写真を思わせるところもある。
写っているのは、何の変哲もない現在の日本の風景だ。海岸、工場、団地の庭、錆びたトタンと剥げたペンキ、壁の染み、その湿度、そして唐突に、花。すべてが等価のままただそこに、沈黙している。

しかしこの無人の風景は見慣れた日常のようでもあり、そうでないようでもある。いつか見たはずの記憶、いやそれは錯覚で、単に午睡の夢の中の光景だったのかもしれない。端々に見え隠れする生活の気配も、かえってその曖昧な不在感を際立たせているかのようだ。
私の帽子がどこかで、私が拾いに来るのを待っているとしたら、それはきっとこんな景色の中だろう。

そう、この咲き群れる立葵を、いつかどこかで仰ぎ見たことがある。あの道沿いの集合住宅に、かつて私は住んでいなかっただろうか。棕櫚の葉が影を落とす夏の路地の突き当たりに、何があるかも私は知っている。
私は確かに、あの赤い帽子をかぶってここに立っていたのだ。


“THE SIGN OF LIFE”    写真: 清野賀子  (オシリス)

| | Comments (0)

« July 2004 | Main | March 2005 »