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2004.01.18

 知的じゃないスポーツ

野心家の仏内相ニコラ・サルコジ氏が最近の訪中時、「相撲は知的なスポーツではない」等々、日本文化に否定的な発言をした、というニュースがありました。
原文記事は読んでいませんが、親日家のシラク大統領に対する皮肉を込めた「政治的発言」だろうということで、メディアが「日本批判」と色めき立つような、さしたる内容のある発言ではないのだけれど、結果的に最近の相撲界に対する的確な批評にはなっています。ただ、相撲はスポーツであると同時に、伝統的に神事という儀式なわけで、儀式はシンプルに「形」を磨きぬいたもので、インテリジェントな神事なんて聞いたことない。

サルコジ内相といえば、先日PSGのグラィユ会長が、リヨン戦でパリサポーターが警官に怪我をさせた件で呼ばれて怒られたばかり。治安問題への取り組みで評価が高く、大統領選出馬も視野に入れているというサルコジ内相ならさもありなんというところ。
かつての仏文化相アンドレ・マルローは来日中に、「インド彫刻はコスモス(宇宙)に、日本美術はナテュール(自然)に相通じる」等、日本文化を鋭く洞察した言葉の数々を残したけれど、この報道で見る限り、サルコジさんの日本文化評は、残念ながらあんまり「知的」じゃないな。

パリのクラブのファンなどしていますが、私は日本の文化には結構誇りを持っていて、(確かに日本社会の現状は誉められたものではないかもしれないけど)、最終的にはそれが自分の拠り所だという考え方です。日記のページに歌川国芳や伊藤若冲の絵をちょっとだけ拝借しているのも、その辺のバランス感覚といったもの。
日本人が常にそうであったように、私も外国の新奇なものはミーハー的に好き。日本の文化は中国を始め外国の文化に刺激を受け、取り込みながら、その風土の中で極めて独自の美的価値を生み出してきたわけです。例えば、隣国の名もない陶工の雑器の中に無上の精神的な美を見出す、そういう美意識。その点ではフランス人も共通した感覚がある気がします。

異文化に対する差別や傲慢は、多くは無知に基づくものだと思う。アンドレ・マルローはフランス文化の代弁者であると同時に異文化の理解者で、そういうスタンスが取れたら理想的だろうな、と思うのだけど。

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2004.01.12

 脳の中の人影

数多くの収蔵品を誇る美術館の歴史は、これまた数知れないパチものを掴まされてきた歴史でもあるわけなのだが、そういった偽物の山の中に、世にも美しいボッティチェルリの聖母子の贋作がある。イタリア・ルネサンスの巨匠の初期の名作とされていたこの作品を、近年作られた贋作と見抜いたのは、美術史家のケネス・クラーク。その根拠は、描かれた聖母の表情に「1920年代の映画女優を思わせる近代的な作為がある」という直感だったそうだ。
ヨーロッパには「時が真理のベールを剥ぐ」という言葉があって、同時代の人は気づかなくても、時を経て真実が明らかになるというような意味なのだそうだが、例えば、1945年に美術界を揺るがせたフェルメール贋作事件も、現在の専門家ならおそらく、ファン・メーヘレンの描いた贋作に騙されることはなかっただろう。

人間の創作物には、どうしてもその時代の美意識や雰囲気が無意識に表れてしまうもののようだ。1917年にイギリスの少女が撮った有名な妖精の写真は、あのコナン・ドイルも信じ込んでしまったというものなのだが、現代の人の目にはどう見ても絵の切り抜きだという点を差し引いても、写った妖精自体がいささか時代遅れなイメージである。総じてオカルト好きな民族性らしいイギリスの初期の心霊写真もちょっと見たことがあるけれど、いかにもそのテの英文学やヴィクトリア・エドワード朝の絵画を思わせるような雰囲気で、やはり人間の作為はどこかに表れてしまうものなのかな、と思った。

カメラの普及と共に心霊写真が現れ、ビデオが一般化すれば今度は映像に有り得ない人影が見つけ出される。心霊現象は世につれ人につれといった感じで、「人影らしきもの」は時代を象徴するようなものの中に次々と現れては消えていく。写真や映像の中におぼろげに浮かぶそれは、むしろ人の頭の中に映る影なのではないかという気もするのだった。
ファン・メーヘレンの贋作に当時の人があっけなく騙されたのは、寡作なフェルメールの未知の作品を求める気持ちが根底にあったからかもしれないし、オカルトのブームは、この息苦しい現実とは別の世界があってほしい、という願望が生み出すものでもあるのかもしれない。

今日書こうと思っていたのは実はこんな話ではなくて、アルブレヒト・デューラーの絵の話です。

Melencolia1aデューラーの有名な版画作品の中に、『メレンコリアⅠ』という謎めいた作品があるのだけれど、イコノロジー研究者の若桑みどり氏の著作(「イメージを読む」 筑摩書房)の中に、氏の講座の学生達が、この作品の背景にある石の多面体の中に、骸骨のような人の顔が見えると指摘したという話がある。
いかにもテレビの心霊番組を見て育った世代らしい見方だなあ、と思うのだけど、実際私も「なんだか人の顔みたいなものがある」というのは以前から気にはなっていた。事実ルネサンスの時代には、彫刻は石の中に囚われた低次の魂に高い精神を与える行為だ、という思想があったようだ。
しかしデューラーともあろう画家が、意図してこんなデッサンの狂った顔を描き込むとはどうしても思えない。ほぼ同時代のドイツの画家ハンス・ホルバインの作品『大使たち』(※)のように、なにか騙し絵にでもなっているのでは…と絵をあっちこっちの方向から覗いてみたりしたのだけれど、そういうものでもないようだ。
 (※)図右下。画面下部に浮かぶ円盤状の物体を真横から見ると髑髏が浮かび上がる。メメント・モリ(死を思え)である。

Vhhaa画家の立場とすれば、画面の真ん中にあんなのっぺりした大きな平面があったら、そこだけがスコンと抜けたようでおかしなものだろうし、模様や陰影を描き込んだりして画面に変化をつけたくなるだろうとは思う。たまたまそれが人の顔に見えることもあるかもしれない。ただ、デューラーに関しては、「本当に顔ではないのだろうか?」と思わせるような点もある。
デューラーの素描の中には、例えば風景や布のしわの中に、どうも人の顔を潜ませたのではないかという作品がいくつかある。画家のお遊びなのか、意味があるのか、あるいは何か対人的な強迫観念が無意識に表れたのか…なんて思うのは、やはり私の考えすぎなのかもしれないのだけれど。

下の図は、1495年にデューラーが描いた素描。必ずしも現実の風景そのままではないらしい。景色の中に、アルチンボルドの作品を思わせるような人の顔がいくつか見えてこないだろうか。

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(↓自然物を人間に見立てたアルチンボルドの作品。16世紀にはこういう騙し絵的なものがよく描かれました)

Aportraita

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